想い人の背中が(2)
それは哀しみではなかった。ましてや喜びでも、驚きでもなかった。俺はそれを的確に言い表す言葉を持ちえない。強いて言うなら……怒りだった。
「……テル?」
「おかしいよ、こんなの」
あのテルが、真っ直ぐに俺に怒りをぶつけてきた事に、俺は気が動転していた。テルとは十六年の付き合いだ。しかし、こんな顔を見たのは初めてだった。日頃何もかもを隠すテルが、今全てをさらけ出そうとしている。
「洋次にとって、『お嬢』は…… 鈴木美沙子は、何なの?」
テルの怒りの矛先は、俺の予想していたところであったが、それを直球で聞いて来るとは思いもよらなかった。俺は言葉を選んで、答える。
「手の掛かるクラスメイトだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……何で洋次があんなに面倒を見る必要があるの?」
「……面倒か」
「帰りに一緒に歩いてあげたり、時には迎えに行ってあげたり、ご飯を一緒に食べてあげたり、それが面倒を見るって事だよ」
「俺がやらなければ誰かがやる。誰かにそんな苦労させたくないから」
「……他人思いの兄貴肌は、良い所でもあるけど悪い所でもあるよね」
「何だと?」
「僕の気持ちも考えてよ! クラスメイトの気持ちの方が、僕の気持ちより大切だって事だよね?」
世界から切り取られた気分だった。閑静な住宅街に、テルの悲痛な声が響き渡る。幸い今日は風が強くて、声はかき消され、そこらの家中に俺たちの些末な喧嘩が知れ渡る事はなさそうだった。
テルは怒っていた。それはもう、間違いようもなく怒っていた。こんなにも感情を露わにするとは思わなかった。都合の悪い質問をのらりくらりとかわすテルが、俺に都合の悪い質問と答えを、ぶつけてくるとは思わなかった。
「……奥野はどうなんだ?」
「……!」
「そこまで言うなら、テルは奥野と必要以上に話す事はないんだろ」
自分の冷静さが失われていくのが分かる。俺はカッとなって言い返していた。それでも、後悔はしていない。俺たちの間でくすぶっていた問題だ。それを解消する方法が、セックスではなくなった、ただそれだけの事だった。
「奥野は…… 奥野の方から話しかけてくるし」
「だから不可抗力って言いたいのか? ヘラヘラ楽しそうに笑ってんだろ」
「……それは違う話で」
「同じだ。テルが『お嬢』にムカついてんなら、俺も奥野にムカついてんだ」
……こう言っちゃなんだが、所詮テルはテルだ。自分の弱みを突かれると、言い返せなくなる。俺の全てを弾劾するつもりで居たテルが、もう押し黙っている。自分が奥野とどんな風に話していたか、そんな事まで気に掛けていなかったであろうテルは、たった今それを思い返しているようだった。
ちょっとだけ、自分が卑怯だと思った。テルと俺が言い争ったって、俺が勝つに決まっている。この前良助に、お前のやっている事はただのお節介だと言われて、みんなの背中を押す役のつもりで居た俺は気分が悪かった。でも本当に頼りになるみんなのリーダーは、もっと懐が広い人間が務めるべきだとも思えた。
テルが奥野と楽しそうに話しているのが我慢ならない。そういった負の感情から目を背けようとしてきた俺は、ようやく自分の事を見つめ直す事が出来た。だからこそ、テルに責められても、素直に悪かった、と返す事も出来ない。俺とテルは黙り続けていた。夏が近づいてきた。太陽はなかなか落ちず、この時間が永遠に続くような気もしていた。
些末な口論を終わらせる言葉をいくつか知っていた。しかし俺にそれをじっくり選ぶ程の余裕はなく、早く終わらせたくて、気が急いた。
「じゃあ別れるか?」
俺の言葉は宙に浮いた。テルの表情が、一気に変わった。
「……何で?」
「気に入らないなら、そうすりゃ良い。違うか?」
間違った選択をした気はしなかった。しかし、良い選択でもない事は分かりきっていた。何故ならこれは、俺たちの関係を利用した卑怯な手段だからだ。テルも俺もお互いを想うあまりに、お互いを取り巻く環境に敏感になっているのだろうから、別れるという選択肢はありえない。当然俺もそうだった。
しばらくテルは固まった。喪失感に身体を乗っ取られているようだ。自分の生活から俺が居なくなった日々を想像しているに違いない。そんな事を考えると、俺もぞっとした。テルが居ないなんてありえない。そんな世界には、死んでも居たくなかった。
ふいに、テルと目が合った。途端にテルはこちらへ向かって歩き出した。テルは答えを出したのだ、俺はそう確信したが、そうではなかった。テルは俺を通り過ぎて、家の方角へと歩いて行った。もう目線がすれ違う事も無く、俺が振り返ってテルを見つめようとも、テルはこちらを見る事は無かった。
想い人の背中が、次第に遠くなっていく。俺は諦めて、自分の家へと向かう。
家に着いた俺は、まず携帯を開いてメール画面を見た。何も来ていない。どうやらテルは考え込んだらしかった。俺の問い掛けた質問を、真剣に考え始めたのかもしれなかった。
急に俺は恐ろしくなった。もしテルが、「洋次は別れたがってる」なんて勘違いをしようものなら、事態は悪化してしまう。慌ててメールを開いて、文章を考えた。
誰が悪いわけでも無いこの問題について、謝る気はさらさら起きなかった。懐の大きい奴なら、すぐにここで謝るのかもしれないが、そんな安いプライドは持ち合わせていない。本当に自分が悪いと思った事以外で、俺は謝りたくなかった…… だからこそ、この前慎悟にきちんと謝ったし、良助も俺たちに謝った。テルはその場に居なかったから知らなかっただろうが、幼なじみの関係も、徐々に変わりつつあるんだ。
「俺は別れたくない、よく考えてくれ」俺が書いて送ったのはそんな文章だった。少なくともこれで、変な誤解に至るのを防ぐ事が出来る。テル、よく考えてみてくれ。お互いが居なくなった世界なんてつまらない。そんなの当たり前じゃないか。俺は強く気持ちを込めながら、携帯を握りしめた――。
○ ○ ○ ○ ○ ○
結局、昨日一晩待っても返事は来なかった。考えすぎて疲れて眠ったのかもしれない。見てないという事はなさそうだが……、いずれにしろ、俺は普段通りの顔で学校に来て、またお嬢と顔を合わせなければならなかった。
「洋次、ご機嫌麗しゅう? 昨日は想い人と上手くいきましたの?」
「生憎さっぱりだ」
「ほほほ! いい気味ですわね。わたくしを蔑ろにした罰ですわ」
「勝手なこった。お嬢が勝手な事ばっかしてるからだってのに」
「あらん? わたくし何もした覚えはありません事よ?」
ふんぞり返るお嬢。お嬢に何を言おうと無駄だという事を俺は知っていた。ただ、どこかはけ口が無ければ、行き場のない鬱憤で胸が一杯になってしまうようだった。それにしても、お嬢に言う必要はなかったかもしれない。
HRのチャイムが鳴り、一同が慌てて席に着き、前に着座するお嬢はくるりと前を向き直る。俺は頬杖をついて、時間が過ぎるのを待った。どうせテルは学校には居るんだ。いざとなったら教室に押しかければ良い。この際、体裁を取り繕ってても仕方ない。俺は俺らしくいれば良い。
それからというもの、俺は全く午前の授業に耳に入らなかった。ぼんやりと黒板に書かれた事を写したり、予習してきた事を答えたりした記憶はあるが、俺は常に窓の外を見つめ、五月も終わりの空に思いを馳せた。俺が予想していた以上に、テルとの問題は心の中で面積を増やしているらしい。これは昼休憩にでも、テルに直接コンタクトを取るしかなさそうだ。
現国の授業が終わって、席を移動して自分の席へと戻る途中、
「ハロハロー。何か元気ないじゃん」
宇野に声を掛けられた。隣には、よく宇野と一緒に居る、確か野上とかいう女子も立っていて、急に俺に人差し指を突き付けてきた。
「さては住田君、テル君との事で悩んでるのねえ!のがみんお見通しよ❤」
……何だこの子。




