想い人の背中が(1)
「あらん? 洋次、今日はずいぶんと急いでますのね」
帰りのHRが終わって、真っ先に立ち上がった俺を呼び止めたのは、他でもないお嬢だった。お嬢は今日もふわふわで目立つ色の髪をなびかせ、颯爽と俺の前に立っている。その訝しむような目が、俺に説明を求めている。
「悪いが今日はお嬢に構ってられん。俺にも用事があるんだよ」
「あたくしより優先すべき用事があるなんて、良い度胸です事。一本気な貴方にも、待つ女が居るのかしら」
「……そんなんじゃないぞ」
「ぜひ紹介してほしいものですわね。まあ、存分に楽しみなさいな」
案外すぐ諦めがついたらしく、他のクラスメイトを呼びつけて荷物を持たせ、その男と教室を出て行った。最後に呆れ顔を俺に浴びせたのは、罪悪感を植え付けたいお嬢の作戦だろう。いつもは俺の仕事だった。お嬢の分の荷物も持って校門まで連れて行き、そこで控えているリムジンに引き渡す。こうして客観的に見ていると、いかにお嬢が異常なのかを思い知らされる。
そんな風に考えている間にも、時間は過ぎていく。俺は慌てて荷物を持って、
二組の教室へ向かった。珍しく今日は、俺も「あいつ」も部活が無いという情報を既に知っていた俺は、お嬢から非難の目を向けられようと、今日はそちらへ急がなければならなかった。「待つ女」、そうだな、女ではないな。
さっきお嬢に捕まっていた間に、帰ってしまったのではないかという不安が過る。別にあいつとは何の約束もしていないからだ。しかし、そんな不安は杞憂に終わった。あいつはクラスメイトと喋っていた。俺はすぐに呼びかける。
「テル、一緒に帰ろうぜ」
「……え…… うん、帰ろうか」
「テル君帰るのかー、また明日な」
「またね」
テルは話していたクラスメイト、奥野に別れを告げて、こちらに歩み寄ってきた。俺はなるべく奥野の方を見ないようにするので精一杯だった。
「洋次も部活、お休みなんだっけ」
「体育祭が近い関係でな」
「そっか」
進級してから、テルと会う回数は極端に減った。その一番の理由は、テルが軽音楽部に入部し、少人数で運営するために時間を無くし、朝も放課後もほとんど掛かりっきりになってしまった事にある。テルが何か打ち込む趣味を見つけたのは喜ばしい事だが、心のどこかで素直に喜べない自分が居る事に、気づかざるを得なかった。
肩を並べてテルと下駄箱へ向かいながら、俺はようやくテルをきちんと見る余裕が出来た。テルの髪は少しずつ体積を増し、俺だったら早く切ってしまいたいと思える程だった。その髪が、テルの横顔を隠すのに手伝って、以前にも増してテルの表情が読み取りづらくなっていた。
テルの環境は、この一、二ヶ月で大きく変わった。前は達也と同じ部活に入るなんて考えられなかったし、あんなにも自分の「領域」に他者が入るのを許すとも思えなかった。少なくとも、奥野のような人間は稀だった。察しの良い奴なら、すぐにテルの作る「領域」の壁に阻まれて、テルに近づこうとするのをやめる。テルは「孤独」を好んだ。しかし、去年落合がそうだったように、数人がテルの「領域」の壁を飛び越えようとする。思えば落合なんか可愛いものだ。今や奥野は、テルの「領域」内に完全に入っているのだから。
表情の見えないテルに、我慢のきかなくなった俺は、つい口走った。
「奥野とは大丈夫だったのか? 話してたんだろ」
「……別に、大した話じゃないから大丈夫だよ」
テルはこちらを見ようとはしない。聞くべき質問では無かったと後悔した。次に何を聞こうかと思っていると、ふいにテルがこちらを見た。
「そっちこそ、今日は『お嬢』は良かったの?」
「ああ、もう断って来た」
「そっか…… わざわざごめんね」
テルは哀しげに笑っていた。俺は驚いていた。俺が奥野に不穏な気持ちを抱くのと同じように、テルもお嬢に不穏な気持ちを抱いているに違いなかった。現に、俺がお嬢に付き添うのを、テルは何度も見ているらしかった。
そうでもしなければ、「今日はお嬢は良かったの」なんて聞くはずもない。そうだ、我慢していないわけがないのだ。我慢がきかなかったのは俺の方だ。
「体育祭は部活動対抗リレーがあるらしいな」
「……そうなんだ。それだったら、洋次の陸上部は楽勝だね」
「走るのが取り柄だかんな」
できるだけ普通の話をしようと務めた。それにしても、テルがお嬢の事を牽制するような発言をしたのは驚きだった。思う事があっても滅多に口にしなかったテルが……。周りの環境が変わっていく中、テルも変わろうとしているのかもしれなかった。俺はどうだろうか。自分の頭がグルグルと解けない螺旋に取り込まれていく。
「クラス対抗リレーもあるだろ。テルは出れんだろうけどな」
「そうだね…… 洋次はアンカー?」
「何で分かったんだ」
「分かるよ」
少しずつ、俺たちは普通のテンションを取り戻してきた。校門を出て、二人の家の方角へ向かう。話し始めたら、分かれ道なんてすぐだ。楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまう。
最近は、ほとんど家で会う事もなくなった。忙しさが原因だけなら良かった。なんとなくお互いに距離を感じて、テルの方から言いださないのは仕方ないとして、俺もテルを誘い辛くなってしまった。最後に家で会って、それから……身体を重ねたのは、試験週間の時だったと思う。テルに勉強を見てやった後に、お互いの溜まったものを解消する、というのは常套手段だ。つくづく、テルがもし優等生で勉強に困っていなかったなら、俺たちの関係は全く違っていたのだろうと思う。
他愛のない話をしながらも、俺は決めていた。今日は家に誘おうと。いつでもチャンスがあった去年とは違う。チャンスを得るごとに、きちんとアクションを起こさなければならない関係になってしまったのだ。ひと組のカップルとしては、それが前進なのか後退なのかは分からないが、俺たちが乗り越えなければならない壁のようには感じていた。
分かれ道が見えてくる。自然と俺たちの会話は止まる。多くの人にも経験があるだろうが、分かれ道は残酷だ。全ての会話は終わって、業務連絡をしなければならなくなる。しかし今日は、そんな風にしたくはなかった。
「……テル、今日家に寄ってくか?」
言おうと思えばすぐに言えるのは俺の良い所だ。一度決断した事を迷う事は無い。そうだと決めたらそうする。俺はいつもの様に決断を実行に移した。
テルは立ち止まった。俺はちょっと前に立っているから、テルの顔がよく見える。テルは俯いていた。五月の風に髪がなびき、組んだ手で髪を押さえつけようとしている。俺は出来るだけ明るい顔をして待った。緊張を悟られないように、俺も必死だった。テルは申し訳なさそうに口を開いた。
「今日は行かない」
耳を疑った。テルの発した言葉を理解するのに時間が掛かった。俺はまたもや今日、テルに驚かされた事になる。「行かない」、その言葉の持つ意味を噛みしめなければならなかった。冷静で居ようと務めた。
「そうか。じゃあ…… またな」
声が上ずっているのが自分でも分かる。俺は歩き出そうとしたが、後ろから歩く音がしない。振り返ってみると、テルはまだ立ち止まっていた。さっきよりも下を向いている。小刻みに震えているようにも見える。俺はゆっくりとテルに近づいた。
「どうした?」
「……その」
テルは口ごもった。テルの考えが分からない。どうしたいのだろうか。どうしてあげる事が、正解なのだろうか。俺にはちっとも分からない。こんなにも分からなくなっていた事に驚いた。月日がそうさせたのか、あるいは奥野とお嬢がそうさせたのか。どうやら正解は後者らしかった。
テルが顔を上げた。見た事の無い表情だった。
「……嫌なんだ」




