オベディエント(10)
翌日、土曜日の朝。私は決心して、透様の部屋の前に立っていた。
ちゃんと謝りたい。これからも、透様を支えねばならないのだから。
ドアが開いたのは九時頃だった。透様が出てきた。
眠気の覚めたしっかりした顔つきで、私の方にちらと目をやった。
しかし、すぐに反らした。私は慌てて頭を下げた。
「透様、おはようございます……昨日は」
「もう良い。いつまでも些末な事に気を取られている僕ではないからね」
透様は風を切って歩き出した。
私はホッと胸をなで下ろして、その後ろを歩いてついて行く。
階段を下り始めた辺りで、しばらく黙っていた透様が突然振り返った。
「昨日、純平との話を聞かせてもらった。心配性な純平の事だ。弟に心配されるほど、僕は軟な男に見えるのかな?」
「……いえ、純平様は」
「分かっている。純平の気持ちも……氷紀、君の気持ちも」
「……透様」
透様はそう言うと前を向き直った。
冷たく装っているが、後ろからでもその頬がほんのり紅く染まるのが見えた。
私が透様に仕えるのは当然であり、使命である。
そして常に、透様からは目に見えない感謝の気持ちを、頂いているのだ。
昨日の話を聞かれていたかと思うと、急に私も恥ずかしくなった――。
「おっそーい!もうお腹すいちゃったよ?」
朝食に取り掛かるため、調理室に入った透様と私を待ち構えていたのは、
「GS」の隠岐真奈美と、御堂武の二人だった。
そもそも、男子寮は女子禁制のはずだが、
そう思った時には、さほど驚いていない様子の透様が尋ねていた。
「真奈美。勝手に男子寮に入るのはやめてもらいたい」
「まーそうケチケチしないで!私も久しぶりに、佐久馬君の料理が食べたくなったんだから!」
「……真奈美。男子寮の風紀が乱れる」
「あらそう?でも女子寮の宇治寮長の許可はもらったよ?何かあったら私が後藤に言っておく、って」
……女子寮の寮長、一学年上の宇治は、おしとやかだが芯の強い女子で、
恐らく男子寮寮長、天真爛漫な後藤俊平では歯が立たない相手だ。
それを見越した隠岐の行動は、褒められたものではなかった。
とりあえず私はフライパンを取り出して、彼女らに問い掛ける。
「では、透様と私と……隠岐、御堂の四人分でよろしいですか?」
「お願いね!ところで六道君たちは?」
「六道は剣道の自主練、舞空はいつものごとくフラフラと消えていったさ――揺るがない山と、留まらない風――」
謎めいた言い方を好む御堂は、先日とは違う本を読み耽っている。
隠岐は彼らや御堂に呆れたのちに、私に尋ね返した。
「ところで、材料間に合ったの?」
「……ええ、昨日分量を間違えて多めに買ってしまったので、残りを使います」
「前から思ってたけど、佐久馬君ってちょっとドジ?」
……私は実の所気にしている事を指摘され、思わず咳払いした。
それから、隠岐は透様と談笑しながら、御堂は本を読みながら、
私が黙々とスクランブルエッグを作るのを待っていた。
そして、私が料理を作り終え、全員が箸を手にしたその時、
調理室に思わぬ来客がやって来た。
「おっ、美味そうな匂いだな。ちょっともらってくな」
……「奇跡の子」織田直樹。思わず私たちが固まる。
彼は、あろうことか透様の分を、勝手にスプーンですくって食べた。
「美味いな!ごちそうさん」
織田はそのまま調理室から出ていき、制止しようとした私の手は空を掴んだ。
私は慌てて透様と自分の皿を交換する。
「すみません透様、まさか織田が……」
「構わないよ氷紀。奴が笑っていられるのも今のうちだ……」
透様が浮かべた不敵な笑みは、今までのものとは質が違っており、
……食べ物の恨みは何とやら、という言葉を私に思い出させた。
四人で食卓を囲みながら、私はふと考えた。
同じ「奇跡の子」でも、かつて透様を恐怖させた「イチロー」とは違って、
織田直樹は感情が無いにしろ、人間味があり、どこか憎めない存在だ。
透様が奴に勝つ日も、そう遠くないのではないか――
少なくとも私は、そう願っている。
○ ○ ○ ○ ○ ○
花園四兄弟の暮らす静かなマンションで、一本の電話が鳴った。
キッチンから手を拭きながら出て来た葛西は、
迷うことなくその電話を取った。
「はい、花園です」
『葛西か。……嚠嶄だ』
電話の相手は、花園嚠嶄。花園四兄弟の祖父であると同時に、
葛西の所属する機関の上司で、伊邪那岐の理事長を務める男。
『奇跡の子』プロジェクトの統括責任者である。
『一号、織田直樹の「再教育」は上手くいってるか?』
「……彼に敗北の苦い味を知ってもらうため、準備は進んでおります」
『そうか……競争や敗北は人を強くする。直樹にも知ってもらいたいが……』
「渡透が適任かと。『イザナギ』に居た彼の事は、覚えてらっしゃいますか?」
『勿論覚えておるよ。あれほどの男が『イザナギ』に留まらなかったのは失敗だった。競争型教育のデメリットとも言えるかもしれんが……確かに、直樹を倒せるのは彼しかおらんな』
葛西は姿勢を変えずに、表情すら崩さずに、電話の音を聞き取っていく。
それから黙っていると、嚠嶄がため息まじりに言った。
『直樹をBL学園を送ったのは成功だと思っておる。東京に居た頃より、いきいきしておるわい……もちろん葛西、お前の監視があってこそだが』
「ありがとうございます」
『「奇跡の子」が皆、お前のように上手く成長してくれると良いのだが……
のお葛西紳一郎、「奇跡の子」プロトタイプ――「イチロー」よ』
「勿体無いお言葉です、嚠嶄様」
葛西――「イチロー」と呼ばれた彼は、どの瞬間よりも冷たく、
声色だけ控えめな様子で、そう答えた。
その声は、渡透が初めて耳にした、あの機械音にも似た声と瓜二つだった。
そう、葛西総一郎、彼こそが――始まりの「奇跡の子」。
『引き続き監視を頼む。「奇跡の子」計画は全てお前次第だ』
電話は切られた。葛西も黙って受話器を置く。
それからすぐには元のキッチンには戻らず、その場に立ち止まっていた。
今日は四兄弟全員が外出していて、この空間には葛西一人。
彼はふうと一息吐くと、わずかに口角を上げた。
そして、空間に溶け込むような声で、静かにつぶやいた。
「渡透は……いや、あらゆる常人は『奇跡の子』には敵わない。
花園嚠嶄、貴方もじきに気づくでしょう……貴方の犯した、罪にね」




