オベディエント(9)
「……すみません、呼び止めてしまって」
私は上がりかけた階段を二、三段下りて、純平様と同じ高さに立った。
透様と話す時もなるべくそうしている。渡兄弟は二人とも背が低めで、
平均身長に満たない私でも、見下ろさなければならないのが申し訳ない。
ためらいがちな純平様に、私は笑顔を向けた。
「構いませんよ。……何か用事なら、そこの調理室を借りましょうか」
「……はい」
私は使い慣れている、すぐそばの調理室に純平様を招き入れた。
透様と違って食事にうるさくない純平様は、調理室をあまり使った事もなく、
落ち着かない様子でキョロキョロと天井を見上げている。
「……珍しいですね、純平様が私に用事とは」
純平様の用事を伺うと、私の出したコーヒーを口に運びながら、
言いにくそうに口を動かした後、うつむきがちに彼は言った。
「聞きました、織田さんのこと……『奇跡の子』、なんですよね?」
「……純平様もご存知でしたか」
「ええ、やっぱり氷紀さんも……『イチロー』の事は、覚えていますか?」
実際、「イチロー」がイザナギに現れたのは中三の秋で、
イザナギを離れた私たちは、彼と僅かしか共に過ごしてはいないが、
連日織田直樹を見ている事もあり、彼を思い出すのは容易な事であった。
しかし、一学年下であった純平様や熱哉は、
当然私たち以上に、イチローと共に過ごしているはずであり、
その脅威もよく分かっているのだ。
「兄と氷紀さん達が卒業して、残された僕らにとって……あの一年は地獄でした。出る杭は打たれる……そんな一年でした」
おぞましい物を見たような表情で、純平様は語り始める。
天才たちがそれぞれの分野で活躍し、大きな輪を紡ぎだす。
そんなイザナギの伝統は、たった数ヶ月で崩れ去ったのだ。
「花園理事長の徹底的な競争主義、それを後押しする『イチロー』……。当時勢いに乗っていた秀でた者たちが、『イチロー』と勝負して次々と敗れ、それから失意のうちにイザナギを去って行く……」
「……私も熱哉から少しは聞いています。天才たちの弱肉強食の世界……その頂点には『イチロー』が居た、と」
「恐怖はそれだけではなく……僕らの学年にも、突然転校生が複数入って来たかと思えば、彼らは『奇跡の子』を積極的に名乗り……まるでイザナギは、『奇跡の子』のPRのための学校のようで……」
……私が居た頃は、まだ「イチロー」もその素性までは隠していたが、
「イチロー」の成功を機に、花園理事長も方向性を変えたらしく、
純平様にとっては、「奇跡の子」は馴染みのある単語だったようだ。
また、独自に調べた情報によると、織田直樹は「奇跡の子」第一号であり、
必然的に二号、三号が存在する事は容易に予測できた。
……そんな状況で、純平様たちが高等部への進学をしなかったのも、
透様の決断と同じく、むしろそれ以上に、当然だったように思えた。
しかし、一つ気になった事があった。
「……『奇跡の子』の話までは、私も存じ上げませんでした。イザナギの様子は私も気にしていたのですが、熱哉からは何も……」
「それはきっと、熱哉が言わないようにしてくれていたんだと思います。僕らが苦しんでいる様子を、遠い場所に居る氷紀さんや兄に、少しでも隠そうと、彼なりに考えていたのではないでしょうか……」
……成程。ただ騒ぐだけのバカな弟だと思っていたが、
彼も彼なりに人を思いやる事が出来るようになっていたとは。
少なくとも純平様の中では、熱哉は足手まといの邪魔者ではないようだ。
「あの、僕が氷紀さんに伝えたかったのは、それじゃなくて……」
「ええ、何でしょうか?」
「兄を……止めてもらいたいんです」
純平様はそれだけ言うと、急に押し黙った。
……その言葉が何を意味するか、すぐに察しはついた。
しかしながら、あえて私が口を閉ざしていると、純平様が口を開いた。
「『奇跡の子』には常人では敵わない。それを僕らは経験し、そして氷紀さんや兄でさえも知っている……だからこそ、織田さんと戦おうとしている兄を、止めて欲しい。それが出来るのは、兄の傍に居る、氷紀さんにしか……」
「……残念ですが、お断りします。私は透様を止める意志は御座いません」
私はハッキリと、純平様にそう申し上げた。
私の態度に、少なからず純平様は驚いたようだった。
「……どうしてでしょうか?氷紀さんには分かるはずですが」
「私は生まれてから一度も、透様の選択に逆らった事は御座いません。ましてや、私から透様の意志に抗う進言など、出来ません」
明確な私の拒絶に、さすがの純平様も納得がいかないようで、
波風を立てない彼が、珍しく食い下がった。
「あ、兄は確かに優れた人です。しかし、『奇跡の子』と違って完璧ではない。だからこそ、間違った選択をした時に、止める人が居ても良いし……氷紀さんだって、これからずっと兄に束縛されるなんて……それこそ熱哉のように、少し気を抜くことがあっても良いと思うんです!」
無謀な戦いに挑む兄、それを支える私、
私たち二人の事を思いやって、発言してくれる。
……気持ちは充分伝わった。純平様は、やはり優しいお方だ。
だからこそ、私は誠意をもって、お答えしなければならない。
ただ「仕えているから」と言って納得しなかった宇野に、
追求されて答えたのと、同じ言葉を。
「……純平様、私は覚えているのです」
「え?」
「透様が今まで誰にも臆さず戦ってきて、勝ってきた記憶を……
だからこそ私は、透様の勝利を願っていたいのです」
今日、透様のことを心配するような目で見てしまった私は、
そうしてしまった後ろめたい気持ちはあったものの、
純平様の言うように、透様の選択を止めようとしたわけではなかった。
むしろ、透様らしくない、そんな彼を激励したい、
そんな気持ちで、私は透様を心配していたのだ。
散ってしまいそうになったツバを飲み込みながら、私は言った。
「透様はいずれ、日本の頂点に立つお方。だからこそ、こんな所で……ただの同級生なんかに、負けるわけにはいかないのです」
「……よく兄もそう言っていますが、あれはパフォーマンスも」
「そうであったとしても、私は信じています。透様の意志を」
言い切った私に、もはや諦めたような形で、純平様は立ち上がった。
しかしその表情は、どこか落ち着いた様子で、
私に声を掛けてきたときのような不安は、無いようだった。
「……なんだか、安心しました。きっと兄は、氷紀さんと一緒なら、氷紀さんに支えられて……どこまでも、行けるんでしょうね」
「そう言ってもらえて光栄です。……では、今日はもう遅いので、そろそろ戻りましょう。透様も、自習室から出られている頃ですし」
話に夢中になっていた私は、時計を見て慌てて立ち上がった。
もうすっかり夜も更けた。時間の事などすっかり忘れていたのだ。
それから、夢中な私が気付かなかったのは、
調理室の入口で、透様が私たちの話を聞いていた、という事であった――。




