オベディエント(8)
「状況は、あまり芳しくないようですね」
休憩時間、トイレへと向かう道の途中で、
葛西がどこからか静かに現れ、透様に声を掛けた。
「……そう見えるか」
「優希様から伺っています。やはり、『奇跡の子』織田直樹を破るのは至難の業だと思われます……もし、負担でしたらおっしゃって下さい」
「言ったらどうなる」
「他のあてを探します。下級生の特待生クラスなら、あるいは」
……透様では役不足だ、とでも言いたいのだろうか。
実際そうだったとしても、透様が自分から引き受けた事を、
簡単に投げ出すはずもない。付き合いの浅い葛西には分からないだろうが。
と思っていた私は、次の透様の一言に驚かされる事になる。
「……考えさせてくれ」
透様はささやくようにそう言うと、急にUターンした。
伏し目がちで、唇を噛みしめて振り向いた彼は、
私の目を見ずに、そのまま後ろへと歩いていく。
すぐに透様を追いかけようとした私を、葛西の手が止めた。
「何でしょうか?」
「渡君が無理をしているようなら、佐久馬君、貴方の口から止めてもらえないでしょうか?部外者をむやみに巻き込むのは、本意ではございません」
……読めない男だ。葛西、この男は、「機関」とやらの任務に、
本当に一字一句従うためだけに、BL学園に来たというのか?
葛西の底知れない微笑に、私はさしずめ違和感を覚えている。
「透様がそうならないように、願うばかりです」
一言返事をしてから、私もすぐに向き直って、透様の後を追った。
今の透様に何と声を掛ければよいかは分からない。
しかし、そんな透様をおひとりにさせておくわけにはいかない――。
廊下の端のトイレから、透様が出てきた。
辺りに人影はない。私はゆっくりと彼に近づいた。
「……透様」
「どうした氷紀。僕を笑いに来たのか?」
透様は苦い表情で、自嘲気味に笑っていた。
……私が話し掛けたからには、責任を持たねばならない。
意気消沈している透様に、言葉を選びながら私は言った。
「やはり学問の分野で、彼を上回るのは難しいかと……何せ相手は疑似コンピュータ。知識を問えば横に並ぶ者は居ないのですから」
「ついでに、スポーツも万能なんだろう?ならば何が勝てる分野だ?その情報は掴んだのか?」
「……いえ、感情が無い事さえも、ヒューマンエラーを起こさないという利点に変えている彼ですから……」
「何が勝てる分野だ、と聞いている。僕が勝つためには何が必要だ?」
私の言葉を遮った、透様の強い問いかけ。
しかし私は、その答えを持っていない。
委員会の時も、「奇跡の子」の論理性や発想力に驚かされ、
単純に知識ベース、能力ベースでは彼には敵わない……。
思わず無言になって、迷い始めた私を見るなり、
透様は私に背を向けて、小声でつぶやいた。
「やめてくれ、氷紀」
「……え?」
「そんな目で、僕を見るな……!!」
いつしかその声は大きくなっており、悲痛な叫びにも聞こえた。
そして透様は私を取り残し、逃げるように教室へと走り去っていた。
人影の無くなった廊下。鳴り響くチャイム。
私は、透様の言い知れない孤独を味わっているかのようで、
巨大な壁が目の前に立ちはだかった、彼の心境がおのずと思い知らされた――。
○ ○ ○ ○ ○ ○
その日は、お昼に弁当を食べる時も、夕飯を顔を見合わせて食べる時も、
透様は食事中言葉を発さず、頂きます、ご馳走様だけ言って消えた。
……私があんな目をして彼を見てしまったばかりに、
彼をいっそう孤独へと向かわせたのではないか。
食器を片づけながら、私はそんな事ばかり考えていた。
「佐久馬、元気ねーじゃん。どしたの?」
寮の廊下で、私は宇野に声を掛けられた。
無表情にしていたつもりが、思い詰めたのが表情に出てしまったか。
宇野の隣には落合も居て、相変わらずおどおどしていた。
「今日の三限の前に、渡くんが何か叫んでたのと関係あんじゃね?」
「ちょ、ちょっとうのぽん、余計な詮索はやめましょうよ!」
「……目敏いですね」
「だって今日、渡くん大体一人で行動してたじゃん?いつもなら佐久馬一緒だし、すぐ分かるくね?」
透様や私のことをそこまで気にかける生徒も珍しいとは思うが、
どうやら見る人が見れば、我々の異変は分かりやすいものだったらしい。
「俺は佐久馬の負担が重すぎると思うけどね。渡くんがどーしたいのかは分かんないけど、そのマイナスな部分を佐久馬が全部受け止めてるんでしょ?」
「…………」
「別に、人の人生にどーこう言うつもりはねーけど、佐久馬は自分の事をもっと楽しんでも良いんじゃん?」
つい先日も似たような事を、宇野から質問された覚えがある。
そして、透様が今、少しナイーブになっているとしても、
私の答えは……その時から変わるはずも無かった。
「前にお答えした通りです。透様に仕えるのが私の人生ですから」
そう言って、私は二人を振り切ろうとしたが、
今度は落合が、心配そうな声色で、私に声を掛けた。
「……わ、渡君……上手くいくと良いですね……」
……透様が上手くいくという事は、すなわち織田直樹の敗北を意味する。
自分の友人が敗れる事を、思慮した上での発言だろうか。
そうだとしても、透様は他人から情けを掛けられるお方では無い。
……それは私であっても。だからこそ、彼は反発したのだ。
一呼吸おいて、私は一度だけ振り返り、二人に告げた。
「透様は孤高のお方です。試練こそが、彼を高みへと近づける……余計な心配は、彼を傷つけるだけですよ」
それから私は、自分の勉強のためにも自習室へ向かおうとしたが、
途中で、調理場に自分の調理器具を忘れた事に気づき、一階へと下りた。
すぐに回収した後、階段を上がろうとしたその時、後ろから声を掛けられた。
「……氷紀さん……」
「……誰かと思えば純平様ですか、どう致しました――?」
透様の弟、純平様もまた、不安げな表情で、私の顔を覗き込んでいた。




