第九十二話 クロフォード
馬車の扉が静かに開く。
朝の柔らかな陽射しが、正門の向こうに並ぶ校舎を照らしていた。
一行はゆっくりと馬車を降りる。
登校してきた学生たちが、その姿に次々と足を止めた。
(アリアーナ様だ……。)
(相変わらずお美しい……。)
(まさか学園でお会いできるとは……。)
(クロエ様もいらっしゃるぞ。)
(……あの方々は。)
(アリアーナ様がお連れしているのか?)
周囲の視線が自然と集まる。
しかし。
当の本人たちは全く気にしていなかった。
「アリアよ。」
ルーシーが何気なく声を掛ける。
その一言で。
周囲の空気が止まった。
(……!!)
(アリアーナ様を。)
(呼び捨て……。)
(一体。)
(どこのご令嬢なんだ……。)
アリアはすぐに振り返る。
「はい。」
「ルーシー師匠。」
再び。
周囲がざわめく。
(……師匠?)
(アリアーナ様が。)
(師匠と呼んでいる……。)
(ま、まさか。)
(どこかの国の姫君か……。)
ざわめきは少しずつ広がっていく。
それでも。
ルーシーは何事もなかったかのように校舎を見渡した。
「あの建物は何じゃ?」
アリアも視線を向ける。
「あれは食堂です。」
「ふむ。」
ルーシーは満足そうに頷く。
「カインよ。」
「はい。」
「まずは、その食堂とやらで紅茶でも嗜もう。」
カインは思わず苦笑した。
「ルーシー師匠。」
「先に講義を受けてからですよ。」
「そうか?」
「ならば、仕方あるまい。」
「では、その講義やら、ちと覗いてみるか。」
「はい!」
二人のやり取りに。
周囲の学生たちはただ呆然と立ち尽くしていた。
その時だった。
一人の男子生徒がこちらへ歩いてくる。
整えられた金色の髪。
同じく金色の瞳には、誠実そうな眼差しが宿っている。
白い制服を品良く着こなし、その所作にはいかにも貴族らしい気品が漂っていた。
腰には、一振りの剣が帯びられている。
アリアとクロエの前で立ち止まると。
優雅に一礼する。
「ご機嫌よう。」
「アリアーナ様。」
「クロエ様。」
クロエが穏やかに微笑む。
「ご機嫌よう。」
「クロフォード様。」
クロフォードも柔らかな笑みを浮かべた。
「本日も、お二人ともひときわお美しい。」
「ありがとうございます。」
クロエは上品に微笑み返す。
アリアは静かに会釈した。
クロフォードは再び一礼する。
「それでは、失礼いたします。」
踵を返す。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
カインへ視線を向けた。
しかし。
何も言わず、そのまま人混みへ消えていく。
カインは首を傾げた。
「クロエ。」
「あのクロフォード様って?」
クロエが答える。
「ハミルトン伯爵家のご令息よ。」
アリアも思い出したように口を開く。
「確か、昨年の剣術大会優勝者だったよね。」
「ええ。」
クロエは静かに頷く。
その時。
エリーが思い出したように声を上げた。
「あっ。」
「前に話していた人って、クロフォード様だったんだね。」
「ええ。」
クロエは少し困ったように笑った。
「あの方が、今年の優勝候補筆頭よ。」
「そうなんだ。」
カインは静かに頷いた。
その横で。
アリアが皆を見渡す。
「それじゃ、それぞれの講義に行きましょう。」
「お昼は食堂に集合ね。」
「うん!」
「アリア先輩!」
カインは元気よく頷く。
エリーたちも、それぞれ笑顔で返事をした。
(今度はあの少年まで……。)
(アリア先輩だと?)
(一体、何者なんだ……。)
ざわめきは。
いつまでも収まることはなかった。
そんな中。
一行は、それぞれの校舎へ向かって歩き始める。
初夏の風が、真新しい制服を優しく揺らしていた。
◇
同じ頃。
アルカディア教会自治領。
白亜の塔。
最上階。
窓辺には、アトロポスが立っていた。
その傍らには、ヘルとラグエル。
そして。
教皇が恭しく頭を下げていた。
「……教皇。」
「はい。」
「ヴァルガの様子はどうだ?」
「はっ。」
教皇は静かに答えた。
「出血が酷かったため、現在も療養しております。命に別状はございませんが、失った腕は元に戻らないかと。」
「……そうか。」
アトロポスは僅かに目を細めた。
しばらく窓の外を眺めていたが、やがて静かに口を開く。
「教皇。」
「はっ。」
「大陸全土から、信者を集めよ。」
「……信者を、でございますか?」
「ああ。」
「可能な限り、多くの者をな。」
「……承知いたしました。」
教皇が深く頭を下げる。
その時。
「おいおい。」
ヘルが楽しげに笑った。
「戦争でも始めるつもりか?」
アトロポスは窓の外へ視線を向けた。
「……場合によってはな。」
「へぇ。」
ヘルは口元の笑みを深めた。
「そいつは面白そうだ。」
アトロポスは何も答えない。
そして。
ラグエルへ視線を向けた。
「ラグエル。」
「カインという者は、見つかったか?」
「…………。」
ラグエルは、僅かに間を置いた。
「……まだだ。」
「そうか。」
アトロポスは、それ以上尋ねなかった。
再び、窓の外へ視線を戻す。
眼下には。
白亜の大聖堂。
その向こうには、教会自治領の街並みが広がっていた。
「…………。」
ラグエルは、何も言わない。
ただ。
窓辺に立つアトロポスの背後で。
静かに佇んでいた。
その顔の半分を覆う仮面は。
何一つ。
語ることはなかった。




