第七話 野営
――時は少し遡る。
カインたちが侯爵家での面談を終えた、その日の夕刻。
廊下の窓から庭園を眺めていたクロエは、背後に控える老執事へ振り返った。
「旅の準備はできてる?」
「はい。滞りなく進んでおります。」
「よかった。」
クロエは嬉しそうに微笑む。
「これから、楽しみだな。」
そう言うと、軽やかな足取りで廊下を歩いていった。
◇
二日後の朝。
自由都市リヴァル北門。
侯爵家の紋章が刻まれた豪華な馬車が、出発の準備を整えていた。
周囲には鎧をまとった侯爵家の私兵がずらりと並んでいる。
カインは思わず目を見張った。
「……すごい人数だ。」
「さすが侯爵家だね。」
エリーも感心したように頷く。
「お待たせしました。」
カインとエリーが到着すると、侯爵家の執事が丁寧に一礼した。
「では、ご乗車ください。」
執事が馬車の扉を開こうとした、その時だった。
勢いよく扉が内側から開く。
「カイン! エリー! こっちこっち!」
クロエが満面の笑みで手を振っていた。
「えっ?」
思わず立ち止まる二人。
「早く乗って!」
「えっと……私たちも、こちらへ?」
エリーがおそるおそる尋ねる。
「もちろん!」
何を当たり前のことを、と言わんばかりにクロエは頷いた。
カインとエリーは顔を見合わせる。
冒険者が侯爵令嬢と同じ馬車へ乗るなど、聞いたことがない。
しかし執事も困った様子はなく、静かに微笑むだけだった。
「どうぞ。」
「……失礼します。」
二人は戸惑いながら馬車へ乗り込んだ。
◇
馬車がゆっくりと街道を進み始める。
豪華な車内には向かい合わせの長椅子が置かれ、揺れも驚くほど少ない。
カインは何気なく窓の外へ目を向けた。
前方には騎馬隊。
後方にも騎馬隊。
さらに左右にも私兵が並び、馬車を取り囲んでいる。
これだけの人数がいれば、普通の盗賊程度では近寄ることさえできないだろう。
(これだけ護衛がいるのに、どうして新人冒険者の俺たちまで呼ばれたんだろう。)
考え込むカインの隣へ、クロエが身を乗り出した。
「ねえ、カイン。」
「はい?」
「冒険者って、いつもこんなふうに旅をするの?」
カインは少し困ったように笑った。
「すみません。俺も冒険者になったばかりなので、よく分からなくて……。」
「あっ、そうだった!」
クロエは照れくさそうに笑う。
「じゃあ、この旅はみんな初めてみたいなものなんだね!」
「そうなりますね。」
「ますます楽しみ!」
クロエは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、野営は?」
「何度か経験はあります。でも、爺ちゃんと一緒だったので……。」
「へぇ!」
次から次へと質問が飛んでくる。
カインは一つひとつ真面目に答えていた。
「それでね、カイン!」
クロエは楽しそうに話を続けながら、さらに身を乗り出した。
「はい?」
「ふふっ。カインと話してると、時間を忘れちゃうね!」
その時だった。
「クロエお嬢様。」
向かいに座るエリーが、にこやかな笑顔で口を開く。
「はい?」
「少し……カインに近すぎます。」
「え?」
クロエは自分の座る位置を見下ろした。
いつの間にか肩が触れそうな距離まで近寄っている。
「あ、本当だ。」
そう言いながらも、悪びれる様子はない。
「だって、カインと話してると楽しいんだもん。」
「そういう問題ではありません。」
エリーは笑顔のまま言う。
その笑顔は穏やかだったが、どこか少しだけ固かった。
「エリーは、弟くんが大好きなんだね!」
エリーは一瞬だけ言葉を失う。
「当……然です。」
にこりと微笑みながら答える。
クロエは「そっか!」と嬉しそうに笑うと、素直に少し距離を空けた。
その様子に、カインは苦笑するしかなかった。
(なんだろう……。)
(エリー、少し機嫌が悪いような……。)
馬車の中には再び穏やかな笑い声が響き、街道は北東へと続いていく。
◇
翌日。
――迷いの森。
自由都市リヴァルの北東に広がる、広大な森。
その中には、自由都市リヴァルとトライデン公国、そしてアルカディア神聖国を結ぶ唯一の街道が通っている。
街道は深い森の中を真っ直ぐに伸びていた。
その両脇には、空を覆い隠すほどの高い木々が生い茂っている。
昼間だというのに、ほとんど陽の光は差し込まない。
街道の先は、深い闇の中へ吸い込まれるように続いていた。
朝から、どれほど進んだだろう。
窓の外には、同じような景色が延々と続いている。
森の中では太陽の位置すら分からず、時間の感覚さえ曖昧になっていた。
馬車を取り囲む私兵たちも、周囲への警戒を強めている。
誰もが口数を減らし、木々の奥へ鋭い視線を向けていた。
その時だった。
馬車がゆっくりと速度を落とし、やがて停止した。
「……?」
クロエが窓の外へ顔を向ける。
「どうしたの?」
近くにいた私兵が馬を寄せ、答えた。
「前方に、乗り捨てられた馬車があります。」
「馬車?」
クロエは不思議そうに首をかしげる。
カインとエリーも顔を見合わせた。
「ちょっと見てきます。」
カインがそう告げると、エリーも立ち上がった。
「私も行く。」
二人は馬車から降りた。
街道の前方には、確かに一台の馬車が捨て置かれていた。
すでに数人の私兵が周囲を調べている。
カインたちも近づいていく。
馬車は街道の端へ寄るように止まっており、荷物もそのまま残されていた。
「争った跡はないな。」
一人の私兵が地面を確認しながら呟く。
「襲われたって感じじゃねぇ。」
別の私兵が馬車の中を覗き込んだ。
「まるで、慌てて逃げ出したみたいだな。」
馬車の中には、食い荒らされたような食料が散乱していた。
パンの欠片。
破れた袋。
床には、何かを引きずったような跡も残っている。
「魔物の仕業か?」
「分からん。」
私兵たちは周囲を見回した。
しかし、馬車の持ち主らしき姿はどこにも見当たらない。
カインは静かに目を閉じた。
(……念のため。)
意識を周囲へ広げる。
――《存在感知》。
森の中へ、意識が広がっていく。
周囲にいる私兵たち。
エリー。
そして、少し離れた馬車の中にいるクロエ。
それ以外に、何かがいる様子はない。
(……何もいない。)
カインが意識を解こうとした。
その瞬間。
「……?」
森の奥。
少し離れた場所。
一瞬だけ。
何かを捉えた。
カインはすぐに意識を集中させる。
しかし。
もう何も感じない。
(……気のせい?)
「カイン?」
隣にいたエリーが声をかける。
「どう? 何かいる?」
「……いや。」
カインはもう一度、森の奥へ意識を向けた。
だが、やはり何も感じない。
「多分、いないと思う。」
「そっか。」
エリーは少し安心したように頷いた。
その時。
「よし、ここにいても仕方がない。先を急ぐぞ。」
私兵隊長が声を上げた。
「日が落ちる前に森を抜ける。暗くなれば、ここは危険だ。」
「はっ!」
私兵たちが一斉に応じる。
カインとエリーも馬車へ戻った。
「何か分かった?」
クロエが尋ねる。
「いえ。馬車の持ち主も見つかりませんでした。」
「そう……。」
クロエは少し残念そうに呟いた。
やがて、再び馬車が動き始める。
車輪が石混じりの街道を軋ませながら、ゆっくりと進んでいく。
カインは窓の外へ目を向けた。
高い木々の向こう。
深い闇に包まれた森の奥。
(……さっきのは、何だったんだろう。)
しかし、考えても答えは出なかった。
馬車はそのまま、暗い森の中を進んでいった。
◇
夕刻。
一行は迷いの森を無事に抜け、公国へ続く街道へ出ていた。
夕日が地平線へ沈み始める頃、私兵隊長が馬を止める。
「今日はここまでだ! 野営の準備を開始せよ!」
号令とともに、私兵たちが手際よく陣を築き始める。
クロエが泊まるテントを中心に荷車を並べ、周囲へ見張りを配置する。
熟練兵らしい無駄のない動きだった。
カインとエリーも荷運びを手伝う。
作業の合間に、カインはふと空を見上げた。
森の中では見えなかった夕焼けが、頭上いっぱいに広がっている。
遠くには、今しがた抜けてきた迷いの森が、黒い樹海となって横たわっていた。
やがて焚き火に火が灯る。
私兵たちは夕食を囲み、あちこちで笑い声が上がる。
カインも冒険者として見張りを任され、静かに剣へ手を添えた。
静かな夜だった。
焚き火の薪が爆ぜる音だけが、闇の中へ溶けていく。
誰もが、この夜もいつもと変わらず過ぎていくものだと信じていた。




