第六話 侯爵令嬢
朝。
柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、静かな部屋をゆっくりと照らしていく。
窓の外からは、行き交う人々の声や荷馬車の車輪が石畳を転がる音が聞こえていた。
リヴァルの一日が始まる。
「んーっ……。」
カインは大きく背伸びをすると、軽やかにベッドから降りた。
旅の疲れもすっかり抜けたようだ。
手早く身支度を整え、ふと隣を見る。
「……あれ?」
エリーはまだ布団にくるまったまま、小さく寝息を立てていた。
昨日は誰よりも元気だった彼女が、朝になっても起きない。
珍しいことだった。
「エリー。」
肩を優しく揺する。
「朝だよ。」
「……んぅ。」
小さく返事をしただけで、再び目を閉じてしまう。
「もう朝なの……?」
「うん。そろそろ朝ご飯に行こう。」
「……まだ眠い。」
眠たそうに目を擦るエリーを見て、カインは首をかしげる。
(昨日、そんなに疲れてたかな。)
エリーは照れ隠しをするように、大きくあくびをした。
◇
少し遅めの朝食を済ませると、二人はベルシュタイン侯爵家の屋敷へ向かった。
侯爵家は本拠地こそ別の領地にあるが、自由都市リヴァルにも大きな別邸を構えている。
冒険者ギルドから歩いて十分ほど。
街の中心部に現れたその屋敷は、「別邸」と呼ぶにはあまりにも立派だった。
白亜の外壁。
手入れの行き届いた庭園。
重厚な鉄門の向こうには、豪奢な屋敷が堂々と建っている。
門番へ紹介状を渡すと、ほどなくして初老の執事が現れた。
「お待ちしておりました。」
穏やかな笑みを浮かべる執事に案内され、二人は屋敷の奥へと進む。
赤い絨毯。
磨き上げられた大理石の床。
天井には大きなシャンデリアが輝いている。
思わず足が止まりそうになるほどの豪華さだった。
やがて応接室の扉が静かに開かれる。
その中央では、ふかふかのソファへ腰掛けた一人の少女が、退屈そうに足を揺らしていた。
年は二人より少し年上くらいだろうか。
淡い銀色の髪は朝日を受けて絹糸のように輝き、大きな蒼い瞳は宝石のような透明感を宿している。
気品あふれるドレスをまとっているにもかかわらず、その表情はどこか幼く、無邪気だった。
二人の姿を見つけた瞬間だった。
「来たーーっ!」
少女は勢いよく立ち上がる。
「君たちが護衛の冒険者!?」
ぱっと花が咲いたような笑顔。
「ギルドから聞いたよ! 試験ですごかったんでしょ!」
「私ね、退屈な旅って大嫌いなの! 同じくらいの年の子と旅ができるなんて楽しみ!」
矢継ぎ早に飛び出す言葉。
カインとエリーは圧倒され、顔を見合わせた。
「あの……。」
カインは慌てて頭を下げる。
「カインと申します。こちらは義姉のエリー・ヴァーデンです。」
「私のことはカインと呼んでください。」
「私もエリーで大丈夫です。」
「あっ、ごめんなさい!」
少女は照れくさそうに笑った。
「私ったら自己紹介もしてなかった。」
スカートの裾を軽く持ち上げ、美しく一礼する。
「私はクロエ・ベルシュタイン。クロエって呼んでね。」
その所作は、先ほどまでの無邪気さが嘘のように美しかった。
さすが侯爵令嬢。
育ちの良さが自然と滲み出ている。
「はい。クロエお嬢様。」
カインは改めて姿勢を正す。
「まだ冒険者になったばかりですが、精一杯頑張りたいと思っています。」
その瞬間だった。
クロエの笑顔が、ふっと消えた。
蒼い瞳が、じっとカインを見つめる。
ほんの数秒。
「……?」
カインは小さく首をかしげた。
「あっ。」
クロエは小さく瞬きをすると、すぐにいつもの笑顔へ戻った。
「ううん! 何でもない!」
そう言って元気よく両手を叩く。
「それじゃあ、まずは二人のこと、いろいろ教えてね!」
「はい!」
クロエに勧められ、カインとエリーは向かいのソファへ腰を下ろした。
最初に尋ねられたのは、二人の年齢と出身地だった。
カインが昨日、十四歳になったばかりだと話すと、クロエは目を丸くする。
「えっ! 昨日がお誕生日だったの!?」
「はい。」
「それなら、お祝いしなくちゃね!」
思いがけない言葉に、カインは少し驚いた。
「あ、ありがとうございます。」
その後も、クロエの質問は続いた。
二人がどんな村で育ったのか。なぜ冒険者になろうと思ったのか。そして、普段はどのような訓練をしているのか。
エリーが幼い頃からカインと一緒に育ってきたことを話すと、クロエは興味深そうに身を乗り出した。
「へぇ! じゃあ、本当の姉弟みたいなものなんだね!」
「そうなんです!」
エリーが嬉しそうに頷く。
カインは隣で苦笑した。
「そういえば、二人はどんな戦い方をするの?」
クロエが尋ねる。
「俺は剣を使います。」
「私は魔法を使います!」
「へぇ! 剣と魔法なんだ!」
クロエは楽しそうに頷いた。
それからも、二人がどのように連携して戦うのかなど、クロエの質問は続いた。
昨日冒険者になったばかりだと聞いても、クロエは特に気にする様子を見せなかった。
やがて、一通りの質問を終えると、満足そうに頷いた。
「うん! 二人のこと、よく分かったよ!」
そして、ぱっと笑顔を浮かべる。
「それじゃあ、今度は依頼の説明をするね!」
クロエは二人へ向き直った。
「今回お願いしたいのは、ここリヴァルから、トライデン公国のエヴァンス領までの護衛なの。」
「エヴァンス領……。」
カインが小さく呟く。
「うん! 馬車で三日くらいの旅になると思う。」
クロエは楽しそうに続けた。
「もちろん、他にも護衛の兵士たちはいるから安心してね!」
「なるほど……。」
カインは小さく頷いた。
初めてのクエスト。
それも、他国までの護衛依頼だ。
まだ見ぬ土地へ向かう旅を想像すると、自然と胸が高鳴った。
「それなら、ぜひやってみたいです!」
カインは顔を上げた。
「エリーもいいよね?」
「もちろん!」
エリーも笑顔で頷く。
「私も、ぜひお願いします!」
「うん!」
クロエは満面の笑みを浮かべた。
「それじゃあ、面接、合格!」
「出発は二日後!」
「楽しみにしてるね!」
思いがけない合格宣言に、カインは目を丸くした。
「えっ、もう決まりですか?」
「もちろん! 二人と一緒に旅がしたいもの!」
クロエは当然とばかりに頷いた。
カインとエリーは顔を見合わせ、思わず笑みをこぼす。
「ありがとうございます! 精一杯頑張ります!」
こうして二人は、初めての護衛依頼を引き受けることになった。
◇
その夜。
迷いの森。
「はぁ……はぁ……!」
二人の男が、暗い森の中を必死に走っていた。
「くそっ……! なんなんだ、奴らは……!」
ガサッ!
ガサッ!
生い茂る草を掻き分け、木の枝を腕で払い除ける。
何度も足をもつれさせながら、それでも二人は走り続けた。
ガサッ!
ガサッ!
どれほど走っただろうか。
やがて、一人の男が大きな木の陰へ飛び込んだ。
「はぁ……はぁ……。」
肩を大きく上下させながら、背後を振り返る。
暗闇。
何も見えない。
「……まいたか?」
荒い息を吐きながら、隣へ問いかける。
返事はない。
「……?」
男が隣を見る。
誰もいなかった。
「……おい?」
男の顔から、血の気が引いていく。
「どこだ……?」
周囲を見回す。
「おい!」
「どこに行った!?」
ガサッ。
「!」
背後から、草を掻き分ける音がした。
「ひっ……!」
男の身体が強張る。
ガサッ。
音が近づいてくる。
ガサッ。
ガサッ。
ガサッ。
ガサガサガサッ――。
「…………。」
そして。
再び静寂が訪れた。
風が木々を揺らす音と、自分の荒い呼吸だけが聞こえる。
ドクン。
ドクン。
激しく脈打つ心臓の音が、耳の奥へ響いていた。
一筋の汗が、男の頬を伝う。
その時。
男は感じた。
自分の背後から。
何者かに見られている。
「……誰だ!」
勢いよく振り返る。
暗闇。
何も見えない。
いや。
ポツ。
赤い光が。
一つ。
ポツ。
もう一つ。
「……え?」
ポツ。
ポツ。
ポツ。
次々と赤い光が浮かび上がっていく。
一つ。
二つ。
三つ。
十、二十――。
いや。
数え切れない。
それは。
光ではなかった。
目。
無数の赤い目が。
暗闇の中から。
男を見つめていた。
「ひ……。」
男の喉から、掠れた声が漏れる。
「う、うわあああああああああっ!!」
男の悲鳴が、夜の迷いの森に響き渡った。




