第五話 リヴァルの夜
侯爵令嬢の護衛依頼は、正式に受注する前に、依頼人との面談が必要だという。
「面談は明日でも大丈夫ですよ。」
エマにそう教えられた二人は礼を言い、冒険者ギルドを後にした。
外へ出ると、昼下がりの陽光が石畳を明るく照らしている。
街は朝以上の賑わいを見せていた。通りには多くの人々が行き交い、商人たちの呼び込みや、どこからか聞こえてくる笑い声が街に活気を添えている。
エリーは大きく伸びをすると、くるりと振り返った。
「ふぅ! いろいろあったけど、初日にしては上出来じゃない?」
その顔は晴れやかだった。
カインも自然と笑みを浮かべる。
「うん。護衛依頼の話も進んで、本当に良かった。」
「これでようやく冒険者って感じ!」
「その前に、お腹空いたよ。」
「あっ、私も!」
顔を見合わせ、二人は笑った。
夜中に祖父の家を出発し、ここまで歩き続けてきた。緊張も重なり、空腹はすでに限界だった。
「何か食べようか。」
「うん! あっ、何かいい匂いがする!」
エリーが鼻をひくひくと動かす。
通りの向こうから、香ばしい匂いが漂ってきた。
「あそこかな?」
カインが指差した先には、焼き立てのパンを売る屋台があった。
「行ってみよう!」
二人は屋台へ向かって歩き出した。
その時だった。
道の向こう側に、一人の小さな女の子がいた。
すぐそばでは、母親らしい女性が知り合いと話し込んでいる。
女の子は通りのこちら側にある屋台をじっと見つめていた。焼き立てのパンが、次々と店先へ並べられていく。
女の子は母親の服を軽く引っ張った。
「お母さん、あれ!」
「ちょっと待っててね。」
母親はそう答えると、再び知り合いとの話へ戻った。
女の子はもう一度、屋台を見る。
そして、母親のそばを離れ、通りへ飛び出した。
ちょうどその時、一台の馬車が近づいていた。
「危ない!!」
御者が慌てて手綱を引く。
だが、間に合わない。
「カイン!?」
エリーが声を上げた時には、カインはすでに駆け出していた。
女の子へ飛びつき、その小さな身体を抱きかかえる。
直後、二人は石畳の上を転がった。
――ガタンッ!!
馬車がすぐ脇を通り過ぎ、少し先で止まった。
「……っ!」
カインは女の子を抱えたまま、ゆっくりと身体を起こした。
「大丈夫?」
女の子は驚いたように目を丸くしていたが、やがて小さく頷いた。
「……うん。」
「そっか。良かった。怪我がなくて。」
カインはほっとしたように笑った。
「カイン!」
エリーが慌てて駆け寄ってくる。
そこへ、女の子の母親も駆けつけた。
「大丈夫!? 怪我はない!?」
「お母さん!」
女の子が母親へ飛びつく。
母親は娘を強く抱き締めると、カインへ深く頭を下げた。
「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます……!」
「いえ。無事で良かったです。」
カインは笑顔で答えた。
母親は何度も礼を言い、女の子の手を引いて去っていった。
その姿を見送っていたカインが、ふと顔をしかめる。
「……いてて。」
「え?」
エリーが振り返った。
カインは自分の肘を見下ろしていた。服の袖が少し破れ、肘には擦り傷ができている。
「あれ? 怪我してた。」
「もう! 自分が怪我してるじゃない!」
「ははは。そうみたい。」
「そうみたい、じゃないでしょ!」
エリーは呆れたように息を吐いた。
「宿に着いたら、ちゃんと手当てするからね。」
「え? これくらい大丈夫だよ。」
「ダメ!」
「……はい。」
カインが素直に頷くと、エリーはようやく笑った。
そして、ふと何かを思い出したように顔を上げる。
「あっ、そうだ!」
「ん?」
「お腹空いてたんだった!」
「ああ、そうだったね。」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
そのまま屋台へ向かい、焼き立てのパンと温かなスープを買った。
近くの長椅子へ並んで腰掛ける。
パンを割ると、白い湯気が立ちのぼった。香ばしい小麦の匂いが鼻をくすぐる。
温かなスープを一口飲むと、冷えと疲れが残る身体へじんわりと染み渡っていく。
エリーの頬が緩んだ。
「美味しいね。」
「うん。」
それだけで十分だった。
冒険者になって初めて食べる食事。
いつもと変わらないパンとスープなのに、今日は少しだけ特別な味がした。
◇
食事を終えると、二人は宿を探すことにした。
祖父から旅費は十分にもらっている。とはいえ、まだ駆け出しの冒険者だ。無駄遣いはできない。
エマに教えてもらった、町外れの小さな宿を訪ねることにした。
扉を開けると、恰幅のいい女将が笑顔で二人を迎えた。
「いらっしゃい。宿泊かい?」
「はい。一泊お願いしたいんですが。」
すると、女将は少し困ったように頭をかいた。
「悪いねぇ。手頃な料金の部屋は、もう一部屋しか残ってないんだよ。」
「一部屋だけですか?」
「ああ。別の部屋なら空いてるけど、料金は三倍になっちまうねぇ。」
カインとエリーは顔を見合わせた。
女将に案内された部屋は、小さいながらも清潔だった。
窓際には机と荷物棚が一つずつ。
そして――
小さなベッドが一つ。
「あの……。」
カインは女将とベッドを交互に見る。
「部屋、本当にここだけですか?」
「手頃な部屋はね。今日は商人のお客さんが多くて、どこも埋まっちまったんだよ。」
「どうする?」
カインがエリーを見る。
エリーは一瞬だけ黙り、部屋の中を見渡した。そして、ベッドへ視線を向ける。
(……別々の部屋。)
「この部屋で大丈夫です。」
「えっ?」
驚くカインを見て、エリーは得意げに笑った。
「昔は一緒に寝てたじゃない。」
「いや、それは子どもの頃で……。」
「何?」
エリーは少しだけ口元を緩める。
「今さら恥ずかしいの?」
「……。」
そう言われると、反論できない。
結局、二人はその部屋を借りることになった。
◇
夕暮れ。
部屋へ戻ると、エリーは荷物から手当ての道具を取り出した。
「ほら、カイン。腕、見せて。」
「ああ、そうだったね。」
カインが袖をまくると、肘には先ほどの擦り傷が残っていた。
エリーは傷口を丁寧に拭き、薬を塗っていく。
「まったく……。女の子を助けたのはいいけど、自分も気をつけなきゃダメでしょ。」
「うん。ごめん。」
「……でも。」
エリーは手を動かしながら、小さく笑った。
「無事で良かった。」
「うん。」
手当てを終えると、カインは荷物を棚へ置き、窓を開けた。
涼しい風が静かに部屋へ流れ込んでくる。
昼間の喧騒は少しずつ遠ざかり、代わりに、どこかの酒場から聞こえる笑い声が夕暮れの街へ溶けていく。
カインは窓辺から街を眺めた。
今日一日だけで、いろいろなことがあった。
街へ着いて、冒険者ギルドへ行って、試験を受けて。
そして、初めての依頼の話まで進んだ。
冒険者として迎える、初めての夜だった。
夜通し歩き続けた疲れもあり、眠気はもう限界だった。
カインは部屋に一つしかないベッドを見た。
「やっぱり俺は床で寝るよ。」
「ダメ。」
エリーは即答した。
「床じゃ疲れが取れないでしょ。」
「でも……。」
「昔は一緒に寝てた。」
それは事実だった。
小さい頃は、同じ布団で眠ることも珍しくなかった。
「それに……。」
エリーは少しだけ視線を逸らす。
「家族なんだから。」
「……。」
カインは少し迷ったあと、小さく頷いた。
「分かった。」
◇
魔力灯の灯りが消える。
部屋が静かな闇に包まれた。
――ガサリ。
シーツが擦れる。
窓の外からは、遠くを走る馬車の音や、誰かの笑い声が微かに聞こえてくる。
やがて、それも少しずつ遠ざかっていった。
エリーは天井を見つめていた。
(……。)
目を閉じる。
――ガサリ。
もう一度、寝返りを打つ。
(……あれ?)
眠れない。
身体は疲れているはずなのに、なぜか胸が落ち着かなかった。
隣から、静かな寝息が聞こえる。
エリーはそっと横を向いた。
窓から差し込む淡い月明かりが、眠るカインの横顔を静かに照らしている。
エリーはしばらく、その横顔を見つめていた。
昔は、同じくらいの背丈だった。
同じ目線で笑って、同じ布団で眠って。
何も気にしたことなんてなかった。
なのに。
今は――。
エリーの視線が、カインの肩へ向かう。
いつの間にか、自分よりずっと広くなっていた。
「……。」
エリーは慌てるように視線を逸らし、胸元の布団をぎゅっと掴んだ。
(……何してるんだろ、私。)
目を閉じても、すぐ隣から聞こえる寝息が妙に耳に残る。
そっと、もう一度だけ横を見る。
カインは何も知らず、静かに眠っていた。
「もう……。」
エリーは小さく呟いた。
少しだけ頬を膨らませ、布団を鼻先まで引き上げる。
そして、カインへ背を向けた。
(……寝よ。)
目を閉じる。
それでも、胸の鼓動はなかなか静かになってくれなかった。
窓の外では、月が静かに夜空を渡っていく。
まだ、名前すらない。
小さな想い。
その答えを知らない少女を、淡い月明かりだけがいつまでも優しく照らしていた。




