第八十二話 セシリア
その一言で。
居間は静けさに包まれた。
セシリアは視線を落とす。
小さく息を吸った。
そして。
意を決したように口を開く。
「私……。」
「王女として生まれた以上、いつかは国のために誰かと結婚しなければならないことは……。」
「分かっていました。」
セシリアは膝の上で、そっと手を握る。
「でも……。」
「好きでもない人と……。」
「婚約を決められるのが嫌で……。」
「お父様やお母様と、ちゃんと話すこともできなくて……。」
「何も言わずに、逃げるように城を出て……。」
「修道院へ行ったんです……。」
震える声。
そして。
「だから……。」
「私……。」
「臆病者なんです……。」
最後の言葉は。
消えてしまいそうなほど小さかった。
しかし。
「……すごい。」
最初に口を開いたのはエリーだった。
セシリアはゆっくり顔を上げる。
「私だったら。」
「そんなこと、できなかったと思う。」
「一人で城を出るなんて、すごく勇気がいることだよ。」
「……エリーさん。」
続いて。
アリアも優しく頷く。
「うん。」
「なかなかできることじゃないと思う。」
セシリアの瞳が揺れる。
「俺は。」
カインが静かに口を開く。
「臆病者だとは思わないけどな。」
「……カインさん。」
「だって、怖くても自分で決めて行動したんだろ?」
カインはセシリアを見つめた。
「それって、勇気がいることだと思うよ。」
「…………。」
セシリアは何も答えられなかった。
怖かったから、城を出た。
ずっと、そう思っていた。
けれど。
その行動を、勇気だと言ってくれる人がいる。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「私もー。」
シルフィが、いつものように笑う。
「だって。」
「セシリアが自分で決めたんでしょ?」
「だったら、いいと思うよー。」
「……シルフィさん。」
誰にも責められなかった。
誰にも臆病者だとは言われなかった。
その時。
ルーシーが静かに口を開いた。
「セシリアよ。」
「……はい。」
「お主は、他者が決めた道ではなく、自らの意思で道を選んだのじゃ。」
優しい声が。
静かな居間へ響く。
「選んだ道の先に、どのような結果が待っていようとも。」
ルーシーは静かに続けた。
「大切なのは。」
「その先を、どう生きるかじゃ。」
誰も何も言わない。
皆が黙って、ルーシーを見つめていた。
「だから。」
「自分の選んだ道から、目を逸らしてはならぬ。」
「最後まで。」
「自分を信じよ。」
「……よいな。」
その声は。
母が娘へ語り掛けるように。
どこまでも優しかった。
「……はい。」
セシリアは小さく頷く。
胸の奥で。
ずっと。
小さく疼いていた痛み。
逃げたのではないか。
間違っていたのではないか。
その迷いが。
消えたわけではない。
それでも。
胸の奥にあった痛みが。
ほんの少しだけ。
軽くなった気がした。
セシリアにとって。
それは。
十四歳の少女が。
一人で抱えるには。
あまりにも大きな悩みだった。
その想いを。
誰一人として笑わなかった。
否定もしなかった。
「…………。」
セシリアの瞳に。
少しずつ涙が滲んでいく。
それでも。
誰も何も言わなかった。
仲間たちは。
ただ優しく。
セシリアを見守っていた。
やがて。
一筋の涙が。
頬を伝った。
セシリアは。
その涙を。
隠そうとはしなかった。
◇
アルカディア神聖国。
騎士団本部の一室では、幹部たちによる会議が開かれていた。
長机の上には、幾つもの報告書が並べられている。
その上座に座るのは、レオン。
傍らには、グレン将軍。
さらに、騎士団の幹部たちが顔を揃えていた。
「それで。」
レオンが口を開く。
「エヴァンスを襲撃したアンデッド兵について、何か分かったか?」
グレンが、手元の報告書へ視線を落とした。
「現在も調査を続けております。」
「襲撃に使用された鎧は、我が国のものと一致しています。しかし、兵士たちの身元については、依然として不明です。」
「そうか……。」
レオンは、僅かに眉を寄せた。
エヴァンスで目にした、あの兵士たち。
神聖国の鎧を纏いながら、その正体はアンデッドだった。
腕を失っても。
胸を貫かれても。
動きを止めなかった。
あの光景は、今も鮮明に覚えている。
「正規軍から行方不明になった者はいないのか?」
「各部隊の記録を確認しておりますが、大規模な失踪は報告されておりません。」
「……となると。」
「どこかで、我が国の鎧を入手したということか。」
「その可能性はあります。」
グレンは頷いた。
「ただし、別の可能性も考えられます。」
「別の可能性?」
「何者かが、意図的に我が国の兵士を装わせたのかもしれません。」
「……。」
レオンは黙り込んだ。
神聖国の鎧を纏ったアンデッドが、エヴァンスを襲撃する。
その結果、アルカディア神聖国とトライデン公国の間に、争いが起きていたとしても不思議ではなかった。
「厄介だな。」
「はい。」
グレンが静かに答える。
その時だった。
「将軍。」
幹部の一人が口を開いた。
「一つ、ご報告があります。」
「何だ?」
「先日、アルカディア教会自治領内の教会周辺を巡回していた兵士から、気になる証言が寄せられました。」
グレンが顔を上げる。
「続けろ。」
「夜間、教会の敷地から、複数の武装した者たちが出てくるのを目撃したそうです。」
「武装した者?」
「はい。」
幹部は、一度言葉を区切った。
「その者たちは、いずれも神聖国の鎧を纏っていたとのことです。」
「……何?」
レオンの表情が変わる。
「それは本当か?」
「目撃者は、確かにそう証言しております。」
「人数は?」
「十数名ほどだったと。」
「顔は確認できたのか?」
「いえ。全員が兜を着用しており、顔までは確認できなかったそうです。」
「……。」
レオンは、腕を組んだ。
「教会の騎士ではないのか?」
「それが……。」
幹部は、報告書へ視線を落とす。
「目撃者によれば、正規軍の鎧と同じ意匠だったそうです。」
室内に、僅かな緊張が走った。
「グレン。」
「はい。」
「教会が、正規軍の鎧を保有している可能性は?」
「通常であれば、考えにくいかと。」
「……そうか。」
レオンは、しばらく考え込んだ。
教会から出てきたという、鎧を纏った者たち。
そして、エヴァンスを襲撃したアンデッド兵。
まだ、両者を結びつける証拠はない。
だが。
偶然として片づけるには、気になる話だった。
「その目撃者は?」
「現在、詳細を確認しております。」
「分かった。」
レオンは頷く。
「引き続き調査を進めてくれ。」
「はっ!」
幹部が一礼した。
すると、グレンが隣に座る男へ視線を向けた。
「ヴェルナー。」
「はっ。」
呼ばれたのは、四十代後半ほどの男だった。
短く整えられた灰色の髪。
落ち着いた物腰。
――ヴェルナー・ハルトマン。
騎士団副司令。
長年にわたり、グレン将軍の右腕として騎士団を支えてきた男だった。
「教会の地下を調べてくれ。」
「地下、でございますか?」
「ああ。」
グレンは、机上の報告書を指で示した。
「エヴァンスを襲ったアンデッド兵の出所を突き止めたい。」
「教会が関与していると?」
「まだ分からん。」
グレンは首を横に振った。
「だからこそ、確かめる必要がある。」
「……承知しました。」
「ただし、慎重にな。」
グレンは、ヴェルナーを見据えた。
「教会にこちらの動きを悟られるな。」
「はっ。」
ヴェルナーは、静かに頭を下げる。
「お任せください、将軍。」
「頼んだぞ。」
「必ずや、真相を突き止めてみせます。」
その言葉に、グレンは頷いた。
レオンも、ヴェルナーへ視線を向ける。
「ヴェルナー。」
「はい、殿下。」
「教会は、国民からの信頼も厚い。」
「確かな証拠がないうちは、軽率な行動を避けてくれ。」
「心得ております。」
ヴェルナーは、恭しく一礼した。
やがて。
会議は終了した。
幹部たちが、それぞれ席を立つ。
グレンも報告書をまとめながら、ヴェルナーへ声をかけた。
「無理はするなよ。」
「ご心配なく。」
ヴェルナーは、穏やかに微笑んだ。
「これまでも、幾度となく将軍のご期待に応えてまいりました。」
「ああ。」
グレンも、小さく笑う。
「今回も頼りにしている。」
「光栄です。」
ヴェルナーは、深く頭を下げた。




