第七十四話 ルーシー
朝早く。
淡い朝日がルクシオンの街並みを優しく照らしていた。
屋根には昨夜降った雪が薄く残り、白い吐息が朝の空へ静かに溶けていく。
旅支度を終えたカインたちは、屋敷を後にする。
屋敷を出る前、カインは一度だけ振り返った。
けれど、ルーシーの姿はどこにもなかった。
結局。
ルーシーは最後まで姿を見せなかった。
その理由を。
誰も尋ねることはなかった。
◇
港へ着くと、海面は朝日に照らされ、無数の光が静かに揺れていた。
停泊する交易船はゆっくりと波に身を委ね、船員たちは慣れた手つきで出港の準備を進めている。
冷たい風が白い帆を大きく膨らませた。
埠頭には、執事とノエルが立っていた。
「皆様。」
「本当にありがとうございました。」
執事は恭しく頭を下げる。
ノエルは一言も口を開かない。
どこか寂しそうな表情で、ただ五人を見つめていた。
挨拶を終え、一行は船へ乗り込もうとする。
「……カイン様。」
ノエルが静かに声を掛ける。
カインは振り返る。
「ルーシーお嬢様を泣かせるようなことをしたら。」
「私は、絶対に許しませんよ。」
「……え?」
突然の言葉に、カインは戸惑った。
けれど。
ノエルがルーシーを大切に思っていることだけは、伝わってきた。
「ノエル君。ありがとう。」
ノエルはぷいっと顔を背ける。
その様子を見て。
エリーがくすりと笑った。
「随分嫌われちゃったね。」
「ははは……。」
「俺、何か悪いことしたのかな。」
やがて。
出港を知らせる声が響いた。
「それじゃあ。」
カインは執事とノエルへ向き直る。
「お世話になりました。」
エリーたちも。
それぞれ頭を下げる。
「皆様。」
執事は穏やかに微笑んだ。
「どうか、お元気で。」
「はい。」
カインたちは船へ乗り込んでいく。
最後に。
カインが振り返った。
埠頭には。
執事とノエルが並んで立っている。
執事は静かに頭を下げ。
ノエルは。
何も言わず、こちらを見つめていた。
カインは小さく手を振る。
少し遅れて。
ノエルも小さく手を上げた。
◇
ボォォォ――。
低い汽笛が海へ響き渡る。
船はゆっくりと岸を離れた。
船尾から白い波が広がっていく。
「またねーー!」
シルフィは満面の笑みで大きく手を振る。
港。
街並み。
雪化粧をした屋根。
白い煙を上げる煙突。
その景色は、少しずつ遠ざかっていった。
「そういえば。」
シルフィが首を傾げる。
「ルーシー師匠。何で来なかったんだろう?」
無邪気な一言。
誰も答えられなかった。
◇
冷たい風が頬を撫でる。
海面は朝日を映し、どこまでも蒼く輝いていた。
五人は甲板を船首へ向かって歩いていく。
その足が、不意に止まった。
船首。
一人の少女が水平線を見つめながら立っていた。
白銀の長い髪が、冷たい風に揺れる。
頭には、黒いリボンをあしらった帽子。
コートの裾が静かにはためいていた。
その背中は。
どこか穏やかだった。
気配に気付いたのだろう。
少女はゆっくりと振り返る。
帽子のつばの下。
ガーネットのような深紅の瞳が、五人を映した。
「遅かったのう。」
「…………。」
一瞬。
誰も声を出せなかった。
カインは目を見開いたまま。
そこに立つ少女を見つめている。
エリーは驚いたように口元へ手を添えた。
アリアとセシリアも、言葉を失っていた。
そして。
「ルーシー師匠ーー!!」
最初に飛び出したのは、シルフィだった。
満面の笑みで駆け出し。
そのまま。
勢いよくルーシーへ抱きつく。
「わっ!?」
「ルーシー師匠!!」
「な、何をするのじゃ!!」
「だって、嬉しいんだもん!!」
「わ、分かったから離れるのじゃ!!」
そんな二人を見て。
カインもようやく笑った。
エリーも。
アリアも。
セシリアも。
同じように笑っていた。
ルーシーは困ったように笑いながら、シルフィをそっと引き離した。
そして。
五人を見渡した。
「それと。…………もう違う。」
「え?」
カインは首を傾げる。
ルーシーは少し照れくさそうに笑う。
「妾は、もう。」
「ただのルーシーじゃ。」
春の気配を運ぶ冷たい風が。
六人の背中を、静かに押していた。




