第七十三話 願い
夕暮れ。
五人を乗せた馬車は、ルクシオンの屋敷へ戻ってきた。
馬車が静かに止まる。
扉が開き、カインたちはゆっくりと地面へ降り立った。
玄関先には。
ルーシーが静かに佇んでいた。
朝と同じ場所。
夕陽を背に立つその姿は、長い影となって伸びている。
その影は。
カインの足元まで届いていた。
カインはルーシーの前へ歩み寄る。
「……ルーシー師匠。」
「……うむ。」
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
言葉など。
もう必要なかった。
そこへ。
ノエルが静かに一礼する。
「皆様、お疲れ様でございました。」
「どうぞこちらへ。」
◇
ほどなくして。
屋敷では、ささやかな宴が始まっていた。
温かな料理。
穏やかな笑い声。
勝利を祝う静かな時間。
しかし。
そこにルーシーの姿はなかった。
◇
書斎。
窓から夕陽が差し込み、暖炉の火が静かに揺れている。
ルーシーは本棚の前へ立っていた。
古びた本の背表紙を見つめる。
(十五の時。)
(妾は、一体何を願ったのじゃろうな。)
カインたちと出会ってから。
不思議と、そのことばかり考えるようになっていた。
ゆっくりと一冊の本を手に取る。
そっと頁をめくった。
それは。
どこにでもある、ありふれた物語。
十五歳の姫。
姫が恋した騎士が、彼女を城から連れ出し、二人は追っ手を逃れて旅に出る。
人間の国を巡り。
エルフと出会い、ドワーフと笑い、獣人と語り合う。
数え切れない出会いを重ね。
そして。
二人はいつまでも。
幸せに暮らした。
これは。
そんな物語。
ルーシーは、この物語が大好きだった。
何度も。
何度も。
頁をめくった。
そして。
十五歳の少女は、いつしか夢見るようになった。
(いつか。)
(私も恋をして。)
(いろいろな国を見て。)
(いろいろな人に出会ってみたい。)
(そんな日が来るまで。)
(この本のお姫様のように――)
「……十五歳のままでいたい。」
ぽつりと。
少女の願いが、言葉となって零れた。
その瞬間。
何かが。
世界へ触れた。
光も。
音も。
何もない。
少女自身も。
何が起きたのかなど、知る由もなかった。
――《一つの願い(ソル・デジール)》。
生涯に一度だけ。
自らの力では叶えることのできない、己自身へ向けた願いを言葉にした時。
その願いを現実へ変える異能。
それが。
少女の最初で最後の発動だった。
そして。
その日を境に。
少女の身体は。
十五歳から、時を刻むことをやめた。
◇
書斎。
ルーシーは、開いた本を静かに見つめていた。
止まっていた記憶が。
ゆっくりと動き始める。
「……そうか。」
小さく呟く。
「妾は。」
「世界を見たかったのじゃな。」
本へ視線を落とす。
そこには。
遠い昔。
何度も夢見た世界が広がっていた。
ルーシーは静かに本を閉じる。
元あった場所へ戻した。
窓の外では。
夕陽に染まるルクシオンの街並みが、穏やかな光に包まれていた。
子どもたちの笑い声が、遠くから微かに聞こえてくる。
「ようやく……。」
一筋の涙が。
静かに頬を伝っていた。




