第六十八話 鳥籠
ルーシーは静かに立っていた。
カインたちを乗せた馬車は、ゆっくりと街道を進んでいく。
やがて小さくなり、地平の向こうへ消えていった。
それでも、ルーシーはその場を動かなかった。
冷たい風が、白銀の長い髪と、その左右を飾る大きな黒いリボンを優しく揺らす。
静かに目を閉じる。
百五十年前。
あの日のことが、脳裏によみがえった。
◇
黒煙が空を覆う。
燃え盛る炎。
崩れ落ちる家々。
泣き叫ぶ人々。
その先には、漆黒の瘴気を纏う巨大な骸骨がいた。
エルダーリッチ。
互いに不死。
戦いは二日二晩続いたが、終わりは見えない。
その時だった。
エルダーリッチが、不意に攻撃を止めた。
私は身構える。
しかし、聞こえてきたのは、この世のものとは思えぬ低い声だった。
『ヴァンパイアよ。』
『我と。』
『取引せぬか。』
私は眉をひそめる。
「……取引だと。」
『うむ。』
『お主が。』
『この地を離れぬと約束するなら。』
『我は。』
『この地を襲わぬと誓おう。』
私は目を細める。
「……この地。」
「ルクシオンのことか。」
『そうだ。』
私は静かに振り返った。
炎に包まれた街。
崩れ落ちた家々。
怯える子どもたち。
泣き叫ぶ人々。
その光景を見つめる。
「……。」
「その話。」
「本当か。」
『無論だ。』
再び、悲鳴が響いた。
長い沈黙。
私は静かに目を閉じる。
「……分かった。」
「その取引。」
「受け入れよう。」
エルダーリッチは静かに頷いた。
『約定は結ばれた。』
次の瞬間、エルダーリッチが聞き取れぬ言葉を唱える。
「……何をした?」
『約定を違えぬためのものだ。』
私は目を細める。
『お主が約定を違えれば。』
『この地に厄災が降りかかる。』
『我が違えれば。』
『我自身に厄災が降りかかる。』
「……。」
『どちらかが。』
『真の死を迎えるまで。』
『この約定は続くだろう。』
◇
それから一年も経たぬうちに、ルナヴェール王国は滅んだ。
どれほど抗おうとも、その結末は変わらなかった。
◇
あれで良かったのか。
何度、自問しただろう。
妾は、自らの民と他の地に生きる者たちを。
天秤にかけたのだろうか。
答えは、今も分からない。
あの日から、妾はこの地を離れておらぬ。
約定を守り、この地を守り続けてきた。
そして、あやつと相まみえる日が来たら。
そう思い、研鑽を続けてきた。
百五十年。
それでも、この地には人々の笑顔がある。
子どもたちの笑い声がある。
それだけは、守れたのかもしれぬ。
ルーシーは静かに空を見上げる。
白い雪が一枚、また一枚と静かに舞い降りる。
ふと、カインの姿が脳裏に浮かんだ。
答えを求めることなく、自ら歩き出した弟子。
そして、アリアの姿も浮かぶ。
迷いながらも、自らの道を選ぼうとした少女。
『自分が信じた道を。』
『生きよ。』
自らがアリアへ告げた言葉。
ルーシーは静かに目を閉じる。
百五十年前、炎に包まれた街で一つの道を選んだ。
あの日の自分へ。
今も、同じ言葉を問い続けている。
「……自分が信じた道を。」
答えは、今も分からない。
それでも、選んだ道を妾は今日まで生きてきた。
ルーシーは目を開く。
もう一度だけ、街道の先へ目を向けた。
そこにはもう、馬車の姿はなかった。
ルーシーは静かに微笑む。
「……生きて帰ってこい。」
その声は、もう誰にも届かない。
それでも。
春の気配を運ぶ冷たい風が。
白銀の大地を、優しく吹き抜けていった。




