第五十六話 ルシア・ノクティス
ヴァイスシルトを発って、三日目の朝。
丸二日の航海を経て、一行を乗せた交易船は、ゆっくりと北の港へ近づいていた。
甲板へ出ると、冷たい風が頬を撫でる。
吐く息は白く、南とは明らかに違う冬の匂いが漂っていた。
つい数日前まで。
エヴァンスでは、春の新緑が陽の光に輝いていた。
葡萄畑には新芽が伸び、柔らかな若葉が春風に揺れていた。
それが今。
「見えてきた!」
真っ先に声を上げたのはシルフィだった。
船首へ駆け寄り、遠くを指差す。
その先には、白銀の世界が広がっていた。
雪に覆われた山々。
港を囲む石造りの街並み。
家々の煙突から立ち上る白い煙が、澄み切った青空へゆっくりと溶けていく。
「綺麗……。」
アリアが思わず小さく呟く。
その隣では、エリーも目を輝かせていた。
「すごい……。」
「まだこんなに雪が残ってるんだ。」
カインも目の前に広がる景色を、静かに見つめる。
「同じ季節とは思えないな……。」
セシリアも穏やかに微笑んだ。
「本当に。」
「まるで別の世界みたいです。」
やがて交易船は、岸壁へ静かに接岸した。
船員たちの威勢の良い掛け声が港へ響く。
「綱を引け!」
「荷物を降ろすぞ!」
木箱が次々と運び出され、荷車が忙しそうに行き交う。
カインたちも船を降り、その後には荷物を手にしたリーナとリズが続いた。
その瞬間、冷たい風に乗り、小さな白い結晶がひらひらと舞い降りてくる。
「……雪。」
セシリアが空を見上げた。
エリーは、そっと手を差し出す。
掌へ舞い降りた雪は、触れた途端に小さな雫となって消えていった。
「綺麗……。」
カインも空を仰ぎ、思わず笑みを浮かべる。
「すごいな。」
シルフィは、もう待ち切れないとばかりに駆け出した。
「わぁぁっ!」
しゃがみ込み、両手で雪へ触れる。
「つめたーい!」
それでも嬉しそうに笑いながら、今度は雪を掬い上げた。
「こんなに雪が積もってるの、初めて見た!」
「シルフィ、服を濡らさないようにね。」
エリーが苦笑しながら声を掛ける。
「はーい!」
返事だけは素直だったが、その手はすでに次の雪を掬っている。
その無邪気な姿に、カインたちは自然と笑みを浮かべた。
港へ降り立った一行は、冷たい冬の空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと街へ歩き始めた。
◇
港町は、思っていた以上に活気に満ちていた。
魚を売る商人や荷物を運ぶ船乗り、倉庫へ木箱を運び込む人々。
あちこちから威勢の良い声が飛び交い、忙しそうに人が行き来している。
屋台からは、焼きたてのパンや温かなスープの香りが漂っていた。
鉄鍋から湯気が立ち上り、香草をまぶした魚の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
厚手の外套を身にまとった人々が、笑顔で言葉を交わしている。
道の脇では、子どもたちが雪玉を投げ合いながら、楽しそうな笑い声を響かせていた。
カインは、その光景を静かに見つめる。
(もっと……寂れた場所だと思っていた。)
北の大地。
ヴァンパイアが治めているという噂の土地。
その言葉から勝手に思い浮かべていたのは、冷たく、人の気配も乏しい暗い場所だった。
そこに住む人々も、どこか怯えながら暮らしているのではないか。
そんな印象さえ抱いていた。
しかし。
目の前に広がる街は、想像していたものとはまるで違う。
人の数は、エヴァンスほど多くない。
建物も、華やかとは言い難かった。
それでも、人々の表情は穏やかで、誰もが幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「思っていたのと違うね。」
カインがぽつりと呟く。
エリーも小さく頷いた。
「うん。」
「みんな、楽しそう。」
セシリアも周囲へ目を向ける。
「もっと静かで、少し怖い場所なのかと思っていました。」
「私もよ。」
アリアは石造りの街並みを眺めながら答えた。
「けれど、とても温かい街ね。」
「いい匂い!」
シルフィが突然声を上げる。
視線の先には、焼きたての丸いパンが並ぶ屋台があった。
「さっき食べたばかりでしょ?」
エリーが呆れたように笑う。
「でも、おいしそうだよ?」
「それは否定できないけどね。」
一同の間に、穏やかな笑いが広がった。
◇
しばらく街を歩いたところで、カインは辺りを見回した。
「ところで。」
「ルシア様は、どちらにいらっしゃるんだろう。」
エリーも周囲へ視線を巡らせる。
「誰かに聞いてみようか。」
ちょうど近くを歩いていた中年の男性へ、カインが声を掛けた。
「あの、すみません。」
「はい?」
「ルシア様は、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」
男性は不思議そうに首を傾げた。
「ルシア様?」
「あ、えっと……。」
カインは少し慌てて言い直す。
「ルシア・ノクティス様です。」
その瞬間、男性の表情がぱっと明るくなった。
「ああ!」
「ルーシーお嬢様のことですか!」
「ルーシー……お嬢様?」
カインたちは思わず顔を見合わせる。
男性は気にした様子もなく、街の奥を指差した。
その先。
小高い丘の上に、一つの大きな屋敷が静かに佇んでいる。
「お嬢様でしたら、丘の上のお屋敷にいらっしゃいますよ。」
「ありがとうございます。」
「いえいえ。」
男性は嬉しそうに笑った。
「ルーシーお嬢様に、よろしくお伝えください。」
そう言って軽く頭を下げると、人々の行き交う通りへ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、エリーがぽつりと呟く。
「ルーシー……お嬢様。」
セシリアも驚いたように目を瞬かせた。
「皆さん、とても慕っていらっしゃるのですね。」
アリアは、町人が去っていった方を見つめながら小さく微笑む。
「七星というより……。」
「まるで昔から、この街のみんなに愛されているお嬢様みたいね。」
カインは、もう一度丘の上の屋敷を見上げた。
七星。
その名は、大陸に生きる者なら誰もが知っている。
伝説に語られる英雄。
雲の上の存在。
まして、相手はヴァンパイアが治めているという噂の土地に住む人物である。
カインたちが思い描いていたのは、威厳に満ちた、近寄り難い人物だった。
だが、町の人々の口から語られたのは、そんな存在ではない。
誰もが親しみを込めて呼ぶ。
ルーシーお嬢様。
(どんな人なんだろう……。)
カインの胸に、期待と僅かな緊張が入り交じった。
◇
一行は街を抜け、丘へ続く雪道を登っていく。
振り返れば、港町全体を見渡すことができた。
雪に覆われた屋根。
煙突から立ち上る白い煙。
その向こうには、船が行き交う青い海が広がっている。
冷たい風が丘を吹き抜け、道の両脇に並ぶ針葉樹の枝を静かに揺らしていた。
やがて、丘の上に建つ屋敷の全貌が見えてくる。
長い年月を感じさせる、重厚な石造りの屋敷。
決して豪奢ではないが、その佇まいには、この地を長く見守り続けてきた者だけが持つ静かな風格があった。
門へたどり着くと、二人の門番が姿勢を正した。
そのうちの一人が、一歩前へ出る。
「ご用件をお伺いいたします。」
カインは懐から一通の依頼書を取り出し、門番へ差し出した。
「ルシア・ノクティス様から依頼を受けて、エヴァンスから参りました。」
門番は依頼書へ目を通すと、カインたちと、その後ろに控えるリーナとリズを順に見渡した。
「かしこまりました。」
「少々お待ちください。」
依頼書をカインへ返すと、一人が屋敷の中へ姿を消した。
冷たい風の中で待つこと、しばらく。
屋敷の奥から、一人の初老の男性が姿を現す。
黒を基調とした端正な服装。
背筋は真っ直ぐに伸び、歩みには一切の無駄がない。
長年、この屋敷へ仕えてきたことが一目で分かる、落ち着いた佇まいだった。
男性は一行の前まで来ると、静かに一礼した。
「お待たせいたしました。」
「ルーシーお嬢様がお待ちです。」
カインたちも揃って頭を下げる。
「ありがとうございます。」
「こちらへどうぞ。」
執事に案内され、一行は屋敷の中へ足を踏み入れた。
扉が閉じると、外の冷気が遠ざかる。
屋敷の中は、柔らかな温もりに包まれていた。
廊下には厚い絨毯が敷かれ、磨き上げられた木の床が静かな光を反射している。
壁には北方の山々や、雪に覆われた森を描いた風景画。
古い肖像画もいくつか飾られていた。
その中には、今の屋敷とほとんど変わらぬ景色を背にした、古い時代の家族の姿もある。
カインは歩きながら、そっと周囲を見回した。
ヴァンパイアが治めているという噂の土地。
そこにある領主の屋敷。
そう聞いて想像していた、暗く冷たい場所ではない。
静かで穏やかで、どこか長く住み継がれてきた家のような温もりがあった。
やがて執事は、一枚の重厚な扉の前で足を止める。
コン、コン。
控えめな音が廊下へ響いた。
「ルーシーお嬢様。」
「お客様がお見えです。」
しばしの静寂。
やがて部屋の中から、落ち着いた声が返る。
「入るがよい。」
少女のように澄んだ声。
だが、その口調には、不思議な重みがあった。
執事が静かに扉を開く。
そこは、豪華な謁見の間ではなかった。
暖炉の火が静かに揺れる、落ち着いた応接室。
窓の外には白い雪が舞い、室内には薪の燃える穏やかな音が響いている。
壁一面には本棚が並び、数え切れないほどの書物が整然と収められていた。
古びた革表紙や色褪せた背表紙。
長い年月を経たことが分かる書物が、部屋を埋め尽くしている。
その暖炉のそば。
一人の少女が、ゆったりとした椅子へ腰掛け、本を読んでいた。
執事が脇へ下がり、静かに一礼する。
少女は読んでいた本へ栞を挟む。
ぱたり。
小さな音を立て、本を閉じた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
白銀の長い髪。
その左右を飾る、大きな黒いリボン。
雪のように白い肌。
ガーネットを思わせる、深紅の瞳。
可憐で、どこか気品のある姿。
――だが、それは。
どう見ても、カインたちと同じ年頃の少女だった。
カインも。
エリーも。
セシリアも。
アリアも。
シルフィも。
誰一人として言葉を発することができない。
少女は、驚きに固まる一同を順に見渡した。
やがて、その深紅の瞳を僅かに細める。
そして、小さく微笑み、穏やかな声で告げた。
「――遅かったのう。」




