第五十五話 自慢話
リーナは最後の一杯を注ぎ終えると、静かにティーポットを卓へ置いた。
紅茶の香りが食堂へゆっくりと広がる。
船の揺れも心地よく、食後の穏やかな時間が流れていた。
リーナは皆の顔を順に見渡し、穏やかな口調で尋ねる。
「皆様は。」
「カイン様とは、いつ頃お知り合いになられたのですか?」
何気ない質問だった。
しかし。
「私は小さい頃から!」
真っ先に答えたのはエリーだった。
どこか誇らしげに胸を張る。
「カインとは、ずぅーっと一緒にいるよ。」
「それこそ、同じ布団で寝てたし。」
「えぇっ!?」
セシリアが思わず声を上げる。
同じ布団。
その言葉が頭の中をぐるぐると回る。
エリーは少し照れ笑いを浮かべた。
「あっ、もちろん小さい頃だけどね!」
「それでも……。」
セシリアは頬を赤く染めたまま俯いた。
幼い頃からずっと一緒。
少しだけ羨ましい。
そんな気持ちが胸の奥に浮かぶ。
(でも……。)
ふと、ある日のことを思い出した。
自分にもある。
カインとの、忘れられない思い出が。
「わ、私だって……。」
三人の視線が集まる。
「カインさんに……。」
セシリアはぎゅっとカップを握り締めた。
口に出そうとすると、急に恥ずかしくなってくる。
「お、お姫様抱っこをしていただいたことがあります!」
「えっ!?」
今度はエリーが目を見開いた。
「お姫様抱っこ!?」
「は、はい!」
セシリアは勢いに押されるように頷いた。
その時のことを思い出したのか、頬がさらに赤く染まっていく。
「カインさんが、私を抱き上げてくださって……。」
「きゃっ……。」
セシリアは真っ赤になって俯いてしまう。
エリーは何とも言えない表情でセシリアを見つめていた。
アリアも小さく息を呑む。
(次は私……。)
アリアは紅茶のカップを持ったまま、必死に記憶を辿る。
カインと出会ってからの出来事。
一緒に戦った。
一緒に旅をした。
思い出なら、いくつもある。
けれど。
今ここで二人に対抗できるようなものは――。
(…………。)
(何もない……。)
アリアは心の中で静かに崩れ落ちた。
アリアは肩を落とす。
「アリアさん?」
セシリアが不思議そうに声を掛ける。
「……何でもないわ。」
その声は、どこか力がなかった。
その時だった。
シルフィが満面の笑みで口を開く。
「私はいつも、カインにあーんしてもらってるよ!」
「「「えぇぇぇぇっ!?」」」
三人の声が食堂いっぱいに響き渡る。
シルフィだけがきょとんとしていた。
「な、何?」
エリーが勢いよく身を乗り出す。
「いつもって、どういうこと!?」
セシリアも目を見開いた。
「い、いつからなのですか?」
アリアまで真剣な表情で見つめていた。
シルフィは首を傾げる。
「お願いしたら、食べさせてくれるよ。」
三人は固まった。
「はい、あーんって。」
「…………。」
エリー。
セシリア。
アリア。
三人とも完全に言葉を失っていた。
「カイン、すごく優しいよ?」
シルフィは嬉しそうに微笑む。
「またお願いしようかな。」
アリアの手がぴたりと止まる。
(お願いしたら……。)
(してくれるのかしら……。)
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返された。
静まり返る食堂。
その沈黙を破るように。
「……ゴホン。」
小さな咳払いが響く。
三人が同時に肩を震わせた。
リーナは変わらぬ穏やかな表情のまま、静かに口を開く。
「私は。」
一度言葉を区切る。
「皆様が、いつ頃カイン様と出会われたのかをお伺いしたつもりだったのですが。」
「…………。」
食堂が静まり返る。
エリーは真っ赤になって視線を逸らした。
「そ、そうだった……。」
セシリアも両手で顔を覆う。
「は、恥ずかしいです……。」
アリアは紅茶へ視線を落としたまま固まっていた。
全員が、質問とはまったく違う答えを競うように話していたことへ、ようやく気付いたのだ。
ただ一人。
シルフィだけが首を傾げる。
「違ったの?」
一瞬の静寂。
そして。
「……ぷっ。」
最初に吹き出したのはエリーだった。
「あはははっ! 私たち、何話してたんだろ!」
その一言で、食堂は笑いに包まれた。
エリーにつられるようにセシリアも笑い、アリアも小さく肩を震わせる。
リーナも、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
◇
その頃。
客室。
カインはゆっくりと目を開けた。
「……あれ。」
身体を起こすと、先ほどまでの気持ち悪さはかなり和らいでいた。
「もう大丈夫そうですね。」
隣ではリズが静かに微笑んでいる。
「ありがとう。リーナさん。」
一瞬。
リズの笑みが、僅かに止まった。
「回復されて良かったです。」
「……私はリズですが。」
「え?」
カインの動きが止まる。
「……ご、ごめんなさい。」
「いいえ。」
リズは再び、穏やかな笑みを浮かべる。
「慣れてますので。」
「…………。」
カインは何とも言えない顔で俯いた。
「皆様、とても心配なさっていました。」
「そ、そうなんだ……。」
カインは少し気まずそうに笑う。
「心配かけちゃったな。」
「きっと、皆様も安心なさいます。」
その時。
コンコン。
扉が軽く叩かれた。
「カイン?」
エリーの声だった。
「入っていい?」
「どうぞ。」
扉が開く。
エリー、アリア、セシリア、シルフィが揃って部屋へ入ってきた。
「もう大丈夫?」
エリーが真っ先に尋ねる。
「うん。」
「少し寝たら、すっかり楽になった。」
「良かったぁ。」
セシリアは胸に手を当て、ほっと息をつく。
アリアも優しく微笑んだ。
「無理はしないでね。」
「ありがとう。」
シルフィはぱっと笑顔になる。
「じゃあ、夕日見に行こう!」
「夕日?」
「すっごく綺麗なんだって!」
カインは仲間たちの笑顔を見渡し、小さく頷いた。
「うん。行こうか。」
◇
夕暮れ。
甲板には黄金色の光が降り注いでいた。
湖面は夕日を映し、まるで金色の絨毯のように輝いている。
誰も言葉を発しない。
ただ、その景色を静かに眺めていた。
「綺麗……。」
シルフィがぽつりと呟く。
「うん。」
カインも静かに頷いた。
船はゆっくりと湖を進んでいく。
遠くには。
対岸の大地が、夕霞の向こうに微かに見え始めていた。
もうすぐ、ヴァイスシルト公爵領へ到着する。
そして、その先には北の大陸が待っている。
一行を乗せた船は、夕焼けに染まる湖を静かに進み続けていた。




