第五十四話 船上の一日
交易船は、穏やかな湖面をゆっくりと進んでいた。
風を受けた白い帆が大きく膨らみ、軋む帆柱の音が規則正しく響いている。
港を離れてから、まだそれほど時間は経っていない。
それでも岸辺の街並みはすでに遠くなり、見渡す限りの青い水面が一行を包んでいた。
「すごーい!」
甲板に、シルフィの弾んだ声が響く。
淡い金色の髪を風になびかせながら、手すりの向こうを夢中で覗き込んでいた。
「船って、こんなに速いんだね!」
「シルフィ、あまり身を乗り出しちゃ駄目だよ。」
エリーが心配そうに声を掛ける。
「大丈夫!」
シルフィは元気よく振り返った。
「落ちないもん!」
「落ちてからじゃ遅いよ。」
「はーい。」
返事だけは素直だったが、すぐにまた水面へ目を向けてしまう。
その様子に、アリアは小さく笑った。
「本当に楽しそうね。」
「全部初めてだもん!」
シルフィは満面の笑みを浮かべる。
「風も気持ちいいし、景色もずっと動いてるし。」
「船ってすごいね!」
「そうだね。」
カインも隣で穏やかに笑った。
爽やかな風。
眩しく輝く湖面。
遠くを飛ぶ水鳥。
仲間たちと眺める穏やかな景色は、どこか特別なものに感じられた。
だが、ゆったりと揺れる船の動きは、少しずつ身体の感覚を狂わせていく。
足元が、ふわりと浮く。
景色がわずかに揺れて見えた。
「…………。」
しばらくすると、カインの表情から少しずつ笑みが消えていった。
先ほどまで手すりの向こうを眺めていたはずが、いつの間にか俯き、口元を押さえている。
その変化に、最初に気付いたのはエリーだった。
「カイン?」
「どうしたの?」
「……うん。」
カインはゆっくり顔を上げる。
その顔色は、いつもより明らかに青ざめていた。
「何だか……ちょっと気持ち悪い。」
「えっ?」
アリアもすぐに歩み寄る。
「顔色が悪いわ。」
シルフィは心配そうに覗き込んだ。
「カイン、大丈夫?」
船体がゆっくりと揺れる。
胃の奥が、ふわりと浮くような感覚。
カインは思わず眉をひそめた。
「……たぶん、船酔いみたい。」
「た、大変です!」
セシリアが慌てて両手を胸の前で組む。
「すぐに治癒魔法を――」
「待って、セシリア!」
エリーが慌てて止めた。
セシリアは目を瞬かせた。
「え?」
「船酔いだから。」
エリーは苦笑する。
「治癒魔法じゃ、たぶん治らないと思うよ。」
「治らないのですか?」
セシリアは驚いたようにカインを見る。
「少し横になって休めば、楽になると思う。」
「そ、そうなのですね……。」
セシリアは恥ずかしそうに頬を染めた。
「申し訳ありません。」
「謝らなくていいよ。」
カインは苦しそうながらも、少しだけ笑った。
「心配してくれてありがとう。」
その言葉に、セシリアの頬がさらに赤くなる。
「い、いえ……。」
カインは再び口元を押さえた。
「ごめん。」
「俺、少し横になってくるよ。」
その言葉を聞いた瞬間。
「じゃあ、私が連れていく!」
真っ先に声を上げたのはエリーだった。
「子どもの頃から、カインの具合が悪い時は私が面倒を見てたから。」
「でしたら、私もご一緒します!」
セシリアも一歩前へ出る。
「治癒魔法は効かなくても、少しはお力になれるかもしれません。」
「私も行くわ。」
アリアも迷わず告げた。
「船内の場所は私の方が分かるもの。」
「私も!」
シルフィまで元気よく手を挙げる。
「私、背中をさすってあげる!」
四人が一斉にカインの周囲へ集まった。
「いや……。」
カインは困惑した表情で皆を見回す。
「一人で歩けるから。」
「駄目だよ!」
「無理をなさらないでください!」
「今にも倒れそうじゃない。」
「私も手伝う!」
今度は四人の声が重なった。
誰が付き添うのか。
誰が身体を支えるのか。
いつの間にか、四人の間には妙に張り詰めた空気が流れていた。
「私がお姉ちゃんなんだから、私が行くのが自然でしょ?」
「ですが、体調の悪い方を看ることには慣れております。」
「船内を案内するのは私の役目よ。」
「私は妹だから!」
「いつから妹になったの?」
「今!」
シルフィは迷うことなく答えた。
「…………。」
エリーは何とも言えない顔でシルフィを見る。
カインは青い顔のまま、さらに困ったように眉を下げた。
「……皆様。」
落ち着いた声が、その場の空気を静かに断ち切った。
リズが一歩前へ出る。
四人の視線が一斉に集まった。
リズは、困り切ったカインの表情へ一度目を向ける。
「カイン様は、少々お困りのようですし。」
「私がお部屋までお連れいたします。」
一瞬。
四人は言葉を失った。
カインは申し訳なさそうに苦笑している。
「皆様のお食事も、すでに用意されております。」
リズは穏やかに微笑んだ。
「どうぞご安心なさって、先にお食事をお楽しみください。」
そう言うと、リズはカインの腕を支え、静かに客室へ案内していく。
「カイン様、こちらです。」
「ありがとう。」
「どうかお気になさらず。」
二人の姿が、廊下の奥へ消えていく。
「…………。」
エリーたちは顔を見合わせた。
先ほどまでの勢いが、嘘のように消えていく。
「……そうだよね。」
エリーは照れ笑いを浮かべた。
「別に、全員で行く必要はないもんね。」
「そ、そうですね。」
セシリアも恥ずかしそうに俯く。
「お任せした方が安心です。」
「ええ。」
アリアも静かに頷いた。
だが。
廊下の奥へ消えていった二人を、もう一度だけ見つめる。
「…………。」
自分でも少し、焦りすぎたとは思う。
それでも。
具合の悪そうなカインを見れば、放っておけなかった。
シルフィだけが、不思議そうに首を傾げていた。
「みんな、行かないの?」
「行かないよ。」
エリーが苦笑する。
「任せよう。」
「そっか。」
四人はもう一度、カインたちが消えた廊下へ目を向けると、やがて食堂へ向かった。
◇
船内の食堂には、大きな木製の卓が並び、小窓から柔らかな陽射しが差し込んでいた。
卓には、湖で獲れた白身魚の香草焼き。
野菜のスープ。
焼きたての丸パン。
色鮮やかな果物が並んでいる。
「わぁ!」
シルフィの瞳が輝く。
「おいしそう!」
エリーが笑った。
「さっきも聞いた気がするな。」
「だって、本当においしそうなんだもん!」
賑やかな昼食が始まった。
やがて――。
「何だか。」
エリーが空席を見つめる。
「カインがいないと、変な感じだね。」
セシリアも静かに頷いた。
「そうですね。」
アリアも空席へ目を向け、小さく微笑む。
「きっと、もう少し休めば元気になるわ。」
シルフィも小さく頷いた。
「早く元気になるといいな。」
◇
食事を終えた頃。
リーナが銀色の盆を手に、静かに食堂へ入ってきた。
白磁のティーポットから、紅茶の香りがふわりと広がる。
「食後の紅茶をお持ちいたしました。」
リーナは慣れた手つきで、一人ずつ紅茶を注いでいく。
カップから立ち上る湯気が、ゆっくりと揺れていた。
「どうぞ。」
アリアが微笑みながら受け取る。
「ありがとう、リーナ。」
リーナは最後の一杯を置くと、静かに皆を見渡した。
紅茶の香りに包まれ、食堂にはゆったりとした時間が流れていた。




