第五十三話 出航
「見えた!」
シルフィが窓の外を指差した。
カインたちも視線を向ける。
湖畔に広がる港町。
何本もの帆柱が朝日に照らされ、交易船が静かに停泊している。
大小さまざまな船が桟橋へ並び、多くの人々が忙しそうに行き交っていた。
◇
馬車が港へ到着する。
荷車を押す商人。
木箱を運ぶ船員たち。
威勢の良い掛け声があちこちから響き、露店からは焼き魚や焼きたてのパンの香ばしい香りが漂ってくる。
湖から吹く風は心地よく、白い帆がゆったりと揺れていた。
その光景を目にしたシルフィは、大きく目を見開いた。
「わぁ……。」
「今日って、お祭りなの?」
思わず皆が笑う。
カインが優しく答えた。
「違うよ。」
「ここは港だから、毎日こんなに賑やかなんだ。」
「毎日?」
シルフィはさらに目を丸くする。
「毎日がお祭りみたい!」
アリアも微笑んだ。
「ここは交易港だから。」
「ヴァイスシルトやアイゼンベルグへ向かう船が、毎日行き来しているのよ。」
「すごい……。」
シルフィは感心したように辺りを見回した。
その時、視界いっぱいに広がる青い水面へ目が止まる。
「わぁぁ……。」
「海って初めて見た!」
アリアが思わず吹き出した。
「シルフィ。」
「これは海じゃなくて湖よ。」
「えっ?」
シルフィは驚いたように湖を見つめる。
「湖って、こんなに大きいの?」
エリーも笑う。
「私も最初はびっくりしたよ。」
カインは湖の向こうを見つめながら微笑んだ。
「本物の海は、もっと広いよ。」
「もっと?」
シルフィの瞳がさらに輝く。
「見てみたい!」
その無邪気な笑顔に、皆も自然と笑顔になった。
その様子を見ていたセシリアが、湖面へ視線を向けながら静かに呟く。
「旅って、少し不思議ですね。」
カインが振り返った。
「不思議?」
「はい。」
セシリアは柔らかな笑みを浮かべる。
「知らない景色を見るだけで、少し胸が躍ります。」
シルフィが元気よく頷いた。
「うん!」
「外って、本当に楽しいね!」
その言葉に、皆は穏やかに笑い合った。
◇
桟橋の先では、大きな交易船が出航の準備を進めていた。
船員たちが慣れた手つきで帆や荷物を確認している。
リーナが一歩前へ出た。
「アリア様。」
「乗船の準備が整いました。」
リズも続ける。
「荷物もすべて運び終えております。」
「ありがとう。」
アリアは二人へ微笑んだ。
「今回の旅も、よろしくお願いね。」
「「お任せください。」」
双子は息を合わせて一礼した。
その時。
「間もなく出航します!」
船員の大きな声が港へ響き渡る。
「それじゃあ。」
アリアが皆を見渡した。
「行きましょう。」
一行は桟橋を渡り、交易船へ乗り込む。
甲板へ足を踏み入れると、爽やかな湖風が頬を撫でた。
ゆっくりと帆が風を受け、船体がわずかに揺れる。
やがて、船は静かに岸を離れていった。
「わぁ!」
シルフィは身を乗り出した。
「すごい!」
「本当に進んでる!」
その無邪気な声に、皆が思わず笑みを浮かべる。
港町は少しずつ遠ざかっていった。
◇
船は西へ向かって進んでいく。
左手には、エヴァンス領の大地がどこまでも続いていた。
その遥か南には、雪を冠したアルヴェイン山脈が春の青空の下へ長く連なっている。
山麓から続く緩やかな丘陵には、整然と並んだ葡萄畑が広がっていた。
春を迎えた葡萄の枝には新芽が伸び、柔らかな若葉が陽の光を受けて揺れている。
「ねぇ、アリア。」
シルフィが左手の丘を指差した。
「あれ、何?」
「葡萄畑よ。」
「あれ全部、葡萄なの?」
「ええ。」
「あんなにたくさん?」
シルフィは驚いたように目を見開く。
「そうよ。」
アリアはどこか誇らしげに、丘陵へ視線を向けた。
「あの辺りで作られる葡萄は、エヴァンス領の名産なの。」
「秋になると。」
「丘一面に葡萄が実るわ。」
「へぇー!」
シルフィの瞳が輝く。
「食べたい!」
エリーがくすっと笑った。
「シルフィらしいね。」
「もちろん、そのまま食べても美味しいけれど。」
アリアは微笑む。
「この辺りでは、葡萄酒作りも盛んなのよ。」
「葡萄酒?」
シルフィが首を傾げる。
「葡萄から作るお酒よ。」
「お酒かー。」
「秋になれば、葡萄の収穫も始まるわ。」
「その頃は、今よりずっと賑やかになるのよ。」
「そうなんだ……。」
シルフィはもう一度、遠ざかっていく葡萄畑へ目を向けた。
「秋の景色も、見てみたいな。」
その言葉とともに、名残惜しそうに丘陵をいつまでも眺めていた。
◇
船は穏やかな湖面を進んでいく。
振り返れば、エヴァンスの街も、新緑に包まれた丘陵も、少しずつ遠ざかっていく。
旅の始まりは、不安よりも期待に満ちていた。
まだ見ぬ景色。
まだ出会ったことのない人々。
そして、その先に待つ北の大陸。
それぞれの胸に期待を抱きながら。
船は静かに、対岸を目指して進んでいった。




