第五十二話 旅立ちの朝
夜も更けた頃。
アリアの別邸は、静かな眠りに包まれていた。
窓の外には雲ひとつない夜空が広がり、無数の星々が瞬いている。
アリアはベッドの中で、静かに目を開けていた。
「……。」
眠れない。
いつもなら、もうとっくに眠っている頃なのに。
目を閉じても、なかなか眠りは訪れなかった。
アリアは小さく寝返りを打つ。
明日、カインたちとこの街を発つ。
湖を渡り、さらにその先へ。
見たことのない土地。知らない街。
そして、北の大陸。
「……。」
胸の奥が、どこか落ち着かない。
不安――。
とは、少し違う。
その先に何があるのか。
どんな景色が待っているのか。
そう考えるたび、胸の奥が僅かに弾む。
「……何でかしら。」
アリアは小さく呟いた。
明日が来ることを、こんなにも待ち遠しいと思ったことがあっただろうか。
目を閉じる。
けれど、しばらくすると、また目を開けてしまう。
「……眠れないわ。」
どうしてなのか。
アリア自身にも、まだよく分からなかった。
◇
同じ頃。
セシリアもまた、ベッドの中で目を開けていた。
「……。」
兄であるレオンと離れ、故郷からも遠く離れた見知らぬ街で過ごす日々。
ふと、心細くなることもある。
けれど――。
明日から、またみんなと一緒に旅ができる。
「……。」
そう思うと、なぜか胸の奥が少しだけ弾んだ。
以前の旅を思い出す。
カインと話したこと。
一緒に歩いたこと。
笑ったこと。
そして明日から、またその隣を歩くことができる。
「……楽しみ。」
小さく呟いて。
セシリアは、はっとする。
「……?」
どうして。
こんなにも楽しみなのだろう。
自分でもよく分からない。
けれど、明日の朝が待ち遠しくて仕方がなかった。
セシリアはもう一度、目を閉じる。
それでも、なかなか眠りは訪れなかった。
◇
そして。
その頃――。
「むにゃ……。」
シルフィは気持ちよさそうに眠っていた。
静かな寝息を立てながら。
すっかり夢の中だった。
◇
翌朝。
別邸の庭園には、春の澄んだ空気が満ちていた。
新緑を渡る朝風が、瑞々しい葉を静かに揺らしている。
玄関前には、一台の馬車が停まっていた。
馬車には旅の荷物が整然と積み込まれ、出発の準備はすでに整っている。
その最終確認をしているのは、双子の侍女――リーナとリズだった。
「食料、飲み水、着替え……。」
「忘れ物はありません。」
リーナが静かに告げる。
リズも頷いた。
「定期船への乗船手配も、済ませております。」
そこへ、カインたちが姿を現した。
「皆さん、おはようございます。」
二人は揃って一礼する。
アリアは荷物を見回し、小さく微笑んだ。
「ありがとう。」
「二人がいてくれると、本当に助かるわ。」
「そのためにおりますから。」
リーナは穏やかに答える。
アリアがカインたちのもとへ向かった、その時。
リズがそっとリーナへ耳打ちした。
「お嬢様。」
「きっと今回の旅、楽しみなんでしょうね。」
リーナも小さく微笑む。
「ええ。」
「昨夜も、なかなかお休みになられませんでしたから。」
「今朝も、私たちがお部屋へ伺う前には、もう身支度を終えていらっしゃいました。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
「二人とも?」
アリアが振り返る。
「何を話しているの?」
二人は息ぴったりに頭を下げた。
「「何でもございません。」」
「……?」
アリアは不思議そうに首を傾げる。
その様子を見ていたエリーは、思わず口元を緩めた。
シルフィは小さな鞄を抱えながら、そわそわと落ち着かない様子で辺りを見回している。
「ねぇ。」
「港って、もうすぐ?」
エリーが吹き出した。
「まだ馬車にも乗ってないよ。」
「えへへ。」
シルフィは照れ笑いを浮かべる。
アリアが皆を見渡した。
「それじゃあ。そろそろ行きましょうか。」
◇
馬車は別邸を後にし、湖畔の街をゆっくりと進んでいく。
朝の市場には人々が集まり、焼き立てのパンの香りが風に乗って漂う。
修復中の建物もまだ残っている。
それでも街は以前の賑わいを取り戻しつつあった。
穏やかな時間が流れる。
「ふぁ……。」
小さなあくびが聞こえた。
皆がそちらを見る。
セシリアは慌てて口元を押さえた。
「も、申し訳ありません……。」
エリーが優しく微笑む。
「眠れなかったの?」
「不安で?」
セシリアは少し恥ずかしそうに首を振った。
「いえ……。」
「不安というより……。」
「少し、ワクワクしてしまいまして。」
「えっ?」
思わず声を上げたのはアリアだった。
全員の視線が集まる。
「……。」
アリアはそっと視線を逸らした。
エリーがにっこり笑う。
「もしかして、アリアも?」
アリアは少しだけ頬を赤らめた。
「……そ、それは。」
「……内緒よ。」
その照れた様子に、馬車の中は柔らかな笑いに包まれる。
シルフィだけが、不思議そうに首を傾げた。
「ねぇ。」
「ワクワクすると、何で眠れなくなるの?」
カインは少し笑って答えた。
「楽しみなことが待っているとね。」
「眠れなくなることってあるんだ。」
「へぇ。」
シルフィは感心したように頷く。
「私も、そうなるのかな?」
エリーがくすっと笑った。
「そのうち分かるかもね。」
「そうかな?」
シルフィは首を傾げたまま、小さく笑う。
馬車の中には、穏やかな笑い声が響いていた。
その笑い声を乗せて、馬車は湖畔の港へ向けてゆっくりと進んでいった。




