第四十七話 憧れ
戦いの終わった迷いの森には、静かな夜が訪れていた。
満天の星々が黒い天幕いっぱいに散りばめられ、淡い月明かりを受けた新緑が、夜風に静かに揺れている。
あれほど響いていた剣戟の音も。
怒号も。
魔法が大気を裂く轟音も、もうどこにもない。
あるのは、葉擦れの音。
小川のせせらぎ。
そして、森を渡る柔らかな風だけだった。
まるで迷いの森そのものが、傷ついた命を静かに癒やしているかのようだった。
◇
集落の中央には、大きな焚き火が灯されていた。
橙色の炎が揺らめき、周囲を温かな光で包み込んでいる。
木の実をふんだんに使った料理。
香草で焼き上げられた川魚。
甘い果実酒の香りが夜風に乗って漂い、人々の笑い声とともに森へ溶けていく。
普段、この集落を訪れるのはエルフだけ。
外界から閉ざされた迷いの森に、人間が足を踏み入れることなどほとんどない。
けれど。
今夜だけは違った。
森を守るため、ともに戦ったカインたちを。
エルフたちは感謝を込めて迎えていた。
豪華な宴ではない。
それでも。
今日という日を迎えられたことを祝い、生きていることを喜び合うには、それで十分だった。
「乾杯!」
誰かの声を合図に、木製の杯が高く掲げられる。
笑い声が広場いっぱいに広がった。
先ほどまで怯えていた子どもたちは、今では楽しそうに駆け回り、大人たちも穏やかな笑顔を浮かべている。
戦士たちは肩を叩き合い、無事を喜び合っていた。
その光景を見つめながら、カインは自然と笑みを浮かべる。
(……良かった。)
本当に。
守れたんだ。
その胸に、小さな安堵が広がっていく。
◇
少し離れた場所では、レオンがエルフの戦士たちと静かに杯を交わしていた。
時折笑みを浮かべながら、戦いを振り返っている。
セシリアは子どもたちに囲まれていた。
「お姉ちゃん、こっち!」
「次は私!」
無邪気な声に呼ばれ、セシリアも楽しそうに微笑んでいる。
アリアは女性たちから精霊の加護について尋ねられ、身振りを交えながら楽しそうに話していた。
一方のエリーはというと。
「はい、これ運ぶね!」
料理を抱え、忙しそうに広場を行き来していた。
「エリーさん、本当に働き者ですね。」
エルフの女性が笑う。
「えへへ。」
「こういうの、結構好きなんです。」
そんな賑やかな様子を眺めていたカインは、ふと視線を遠くへ向けた。
広場から少し離れた大樹の根元。
一人の少女が静かに腰を下ろしていた。
淡い金色の髪を夜風が優しく揺らす。
膝を抱えたまま、ただ静かに夜空を見上げていた。
星々が、その新緑の瞳に映り込んでいる。
賑やかな宴の輪には入らず。
どこか遠くを見るような横顔だった。
カインは静かに立ち上がる。
焚き火の明かりを背に、大樹へ向かって歩き始めた。
足音に気付いたのだろう。
少女がゆっくりと振り返る。
「あ。」
柔らかな笑みが浮かんだ。
「カイン。」
カインも穏やかに笑い返す。
「どうしたの?」
「みんな、向こうで楽しそうだけど。」
シルフィは少しだけ困ったように笑う。
「うん。」
「別に嫌なことがあったわけじゃないの。」
そう言うと、再び夜空を見上げた。
枝葉の隙間から覗く無数の星々。
どこまでも続く夜空。
しばらく二人は黙ったまま、その景色を眺めていた。
やがて。
シルフィが小さく口を開く。
「ねえ、カイン。」
「外の世界って……どんなところなの?」
その声は、小さな子どもが夢を語るように、どこか期待に満ちていた。
カインは少し考え、隣へ腰を下ろす。
「どうだろう。」
苦笑する。
「俺も冒険者になって、まだ一か月も経ってないからなあ。」
「えっ?」
シルフィは思わず目を丸くした。
「一か月も経ってないの?」
「それで、あんなに強いの?」
カインは慌てて首を横へ振る。
「いやいや。」
「俺一人じゃ何もできなかったよ。」
「みんながいたから。」
シルフィは少し驚いたようにカインを見つめる。
やがて。
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その笑い声は、夜風に乗って静かに森へ溶けていく。
シルフィは少し照れたように俯いた。
「私ね。」
「昔から、外の世界に憧れてたの。」
そっと夜空を見上げる。
「この森は大好き。」
「みんなも大好き。」
「でも……。」
言葉が止まる。
星空を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「一度だけでいいから。」
「外の世界を、この目で見てみたいって。」
その願いは。
誰にも届かないはずの、小さな独り言。
けれど。
少し離れた木陰。
一人の男が、静かに立っていた。
ゼフィロスだった。
娘の横顔を見つめる。
星明かりを映した新緑の瞳。
そこには、幼い頃から変わらない憧れが浮かんでいた。
「……」
しばらく、その姿を見つめ。
やがて。
静かに踵を返した。
その背中を。
新緑を渡る夜風が、そっと押した。




