第四十一話 二人の父
――迷いの森。
集落の中央。
木々の上に築かれた家の中。
巨大な祭壇の前で、ゼフィロスは水晶へ魔力を注ぎ続けていた。
昨日、結界を展開してから一度も手を離していない。
額から汗が流れ落ち、呼吸は浅く、肩は大きく上下している。
一昼夜にわたって結界を維持し続けた膨大な魔力消費が、ゼフィロスを限界へ追い込んでいた。
それでも、水晶から手を離すことはない。
(……シルフィ。)
幼い娘が初めて風の精霊を呼び出した日。
小さな精霊を前に、誇らしそうに笑っていた。
外の世界について何度も尋ねてきたこともある。
遠くを眺めながら、いつか森の外へ行ってみたいと話していた。
そのすべてが、昨日のことのように思い出される。
(生きろ。)
(お前自身の人生を。)
それだけが、父として最後に託せる願いだった。
ゼフィロスは静かに目を開く。
結界の光は、少しずつ弱まり始めていた。
残された魔力は、もう多くない。
(刻限か。)
ならば。
残された力は、戦うために使う。
一人でも多くの同胞を逃がすため。
娘へ繋ぐ未来を守るため。
七星としてではない。
一人の父親として。
命を懸けよう。
◇
「ヴァルガ様。」
背後から静かな声が響いた。
黒装束の男が一礼する。
「……そろそろ、お時間です。」
ヴァルガはしばらく空を見上げていた。
西の空に残っていた最後の光が、ゆっくりと消えていく。
やがて。
「……分かっている。」
低く答えた。
「捕虜を一人、ここへ。」
「はっ。」
ほどなくして、一人の若いエルフが連れて来られた。
両腕を縛られ、それでも背筋だけは真っ直ぐ伸ばしていた。
ヴァルガの前へ跪かされる。
ヴァルガはゆっくりと大剣を握る。
しかし、右手に力が入らない。
戦場で幾度も命を奪ってきたこの手が、今は僅かに震え、鉛のように重かった。
「……何か言い残すことはあるか。」
青年は少しだけ目を伏せた。
「家族に伝えてくれ……。」
そこまで言って、小さく笑う。
「……いや。」
「必要ない。きっと分かっている。」
静かに顔を上げる。
その瞳には恐怖ではなく、誇りだけが宿っていた。
「我らは、この森と共に生きてきた。」
「命は奪えても、その誇りまでは奪えない。」
「……やれ。」
ヴァルガは何も答えなかった。
ただ、静かに大剣を握り直す。
(許してくれ。)
誰へ向けた言葉だったのか。
自分でも分からなかった。
大剣をゆっくりと振り上げていく。
その重さは、これまで握ってきたどんな武器よりも重かった。
◇
その時。
祭壇の前で、ゼフィロスは水晶から手を離した。
限界だった。
淡く輝いていた結界が、大きく揺らぐ。
パリン――。
巨大な硝子が砕け散るような音が、集落へ響き渡った。
集落を侵入者から隔てていた防衛結界が、その役目を終える。
ゼフィロスは大きく息を吐いた。
身体が僅かにふらつく。
それでも。
倒れることは許されない。
まだ、やるべきことが残っている。
ゼフィロスは祭壇へ背を向け、家の外へ出る。
木々の間を吹き抜ける風が、長い髪を揺らした。
眼下には、ヴァルガたちの姿がある。
その中で、ヴァルガが大剣を振り上げていた。
「……っ!」
ゼフィロスは木の上から飛び降りる。
だが。
間に合わない。
ヴァルガの大剣が。
振り下ろされた。
(止まれ。)
ヴァルガは、自分自身の腕へ願った。
誰でもいい。
この剣を。
止めてくれ。
次の瞬間。
「――《アイギス》!!」
ガキィーーーーン!
甲高い衝撃音が森へ響き渡った。
振り下ろされた大剣が。
青年の目前で止まっていた。
「……何?」
ヴァルガが目を見開く。
そこには何もない。
だが確かに。
見えない何かが、大剣を受け止めている。
「間に合った……!」
青年の前へ、一人の男が駆け込んだ。
レオンだった。
その後ろから、次々と人影が現れる。
カイン、アリア、エリー、セシリア。
そして。
「お父さま!!」
聞き慣れた声に、ゼフィロスは息を呑んだ。
「……シルフィ。」
援軍を求めて公国へ向かわせた娘が、今、仲間たちを連れて戻ってきた。
ゼフィロスは、ただ立ち尽くした。
シルフィは父の姿を見つけると、泣きそうな顔で、それでも笑った。
「援軍。」
「連れてきたよ!」
ゼフィロスは何も言えなかった。
ただ、娘の姿を見つめる。
生きている。
無事に帰ってきた。
そして。
一人ではない。
ヴァルガもまた、静かに彼らを見つめていた。
大剣を握る右手から、僅かに力が抜ける。
誰かが、止めてくれた。
自分にはできなかったことを、代わりに。
その視線が、最後に現れた黒髪の少年へ向けられる。
まだ、この時は知らない。
この出会いが。
やがて、娘の未来さえ変えることになるとは。




