第四十話 父の覚悟
――迷いの森。
茜色に染まっていた空は、ゆっくりと群青へ姿を変えていた。
西の地平に残る最後の夕映えも、やがて夜の帳へ溶けていく。
昼間は鳥の声と精霊たちの囁きで満ちていた森も、今は息を潜めたように静まり返っていた。
新緑の葉を撫でる風だけが、かすかな音を奏でている。
まるで森そのものが、一人の父親の選択を見届けようとしているかのようだった。
集落を包む防衛結界は、淡い緑色の光を放ち続けている。
その光は木々の幹を照らし、夜露を宿した葉の一枚一枚を、翡翠のように輝かせていた。
美しく。
そして、どこか儚い光だった。
刻限まで――あとわずか。
ヴァルガは結界の前に立ち、静かに目を閉じた。
大きく息を吸う。
湿った土の匂い。
草木の青い香り。
遠くで流れる水の音。
穏やかな森のすべてが、今の自分にはひどく遠いものに感じられた。
脳裏に蘇るのは、白亜の塔で交わした一つの契約だった。
◇
「簡単な契約だ。」
感情のない声が、静まり返った部屋へ落ちる。
純白の法衣を纏った男――アトロポスは、ヴァルガを見つめたまま告げた。
その赤い瞳には、慈悲も憐れみも浮かんでいない。
ただ、目の前に置かれたものの価値を量るような、冷たい光だけが宿っていた。
「条件は二つ。」
「一つ。今後、私の命令に従うこと。」
「そして、もう一つ――。」
言葉が途切れる。
アトロポスの視線が、ヴァルガの隣へ向けられた。
小さな獣人の少女――サーシャ。
長い旅の疲れからか、椅子に身体を預け、静かな寝息を立てている。
ヴァルガは眠る娘を一度だけ見つめた。
二か月に及ぶ旅の末、ようやく辿り着いた最後の希望。
その男が今、自分の前にいる。
アトロポスは再びヴァルガへ視線を戻した。
「お前の寿命を、三か月だけ残して差し出すことだ。」
部屋から、すべての音が消えたように感じられた。
ヴァルガはすぐには答えなかった。
言葉の意味を理解できなかったのではない。
あまりにも淡々と告げられたため、それが本当に自分の人生について語られたものなのか、現実感が持てなかったのだ。
「……三か月。」
やがて、低い声が漏れる。
「それより先は……生きられないということか。」
「そうだ。」
アトロポスは何のためらいもなく答えた。
「お前には、まだ数十年の寿命が残されている。その未来を、今この瞬間へ移す。」
ヴァルガが眉を寄せる。
「未来を……移す?」
「生命とは、時の積み重ねだ。」
アトロポスは、まるで当たり前の理を語るように続ける。
「お前がこの先、生きるはずだった年月。その間に蓄えられるはずだった生命力、鍛え上げられるはずだった肉体、得るはずだった力。」
「それらすべてを、今の肉体へ還元する。」
赤い瞳が、わずかに細められた。
「お前は、本来なら数十年をかけて辿り着くはずだった力を、今この場で手にすることになる。」
「その代償として、お前の未来は三か月後に尽きる。」
ヴァルガは黙って自分の手を見つめた。
戦場で幾度も武器を握ってきた大きな手。
獣王国でも屈指の戦士として、数え切れないほどの敵と戦ってきた手。
だが。
今、その手はわずかに震えていた。
死が怖いわけではない。
戦士として生きてきた以上、いつか戦場で命を落とす覚悟はできていた。
ただ。
三か月。
その言葉が、あまりにも短かった。
娘の成長を見ることはできない。
成人を祝うことも。
誰かを愛し、家庭を築く姿を見ることも。
笑って送り出すことさえできない。
いつか。
「お父さん」と呼ぶ声が、大人びた響きへ変わる日も。
その隣で見届けることはできない。
失うのは命だけではなかった。
娘と過ごすはずだった、数え切れない明日だった。
ヴァルガは眠るサーシャへ視線を向けた。
まだ十二歳。
これから先。
数え切れないほどの景色を見るはずの子ども。
春の花を見て笑い。
夏の川ではしゃぎ。
秋の実りを喜び。
冬の寒さに肩を寄せる。
その隣には、いつも父がいるはずだった。
そんな当たり前の未来すら、この呪いは奪おうとしていた。
ヴァルガは、眠る娘の小さな手を見る。
幼い頃。
初めてこの手が、自分の指を握った日のことを覚えている。
あまりにも小さく。
あまりにも弱く。
だからこそ。
何があっても守ると誓った。
その誓いを果たす時が来たのだ。
「この契約を結べば。」
ヴァルガはアトロポスへ視線を向ける。
「娘の呪いは、確実に解けるのだな。」
「解く。」
「二度と再発することもない?」
「ない。」
「この子は……生きられるのか。」
「契約が守られる限りは。」
それは温かな約束ではなかった。
希望を与える言葉ですらない。
ただ、条件と結果を告げるだけの冷たい回答だった。
それでも。
ヴァルガには十分だった。
娘が生きられる。
それだけでよかった。
自分が失う未来より。
娘が手にする未来の方が、何倍も大切だった。
迷いはあった。
恐怖もあった。
未練など、数え切れないほどあった。
それでも。
答えだけは、最初から決まっていた。
「……分かった。」
ヴァルガは静かに立ち上がる。
その声に、もう震えはなかった。
「その契約を受け入れよう。」
ヴァルガは眠る娘を見つめ、できる限り穏やかに微笑んだ。
胸の奥が引き裂かれそうだった。それでも、その痛みを顔には出さない。
たとえ今は眠っていても。
この子の前では、いつだって安心できる父親でいたかった。
「ならば、契約を結ぼう。」
アトロポスは静かに片手を掲げた。
「《生命廻環》。」
瞬間。
眩い光が部屋を満たした。
「ぐっ……!」
ヴァルガの身体が光に包まれる。
全身を焼くような痛みが走った。
身体の奥から、何かが失われていく。
魔力ではない。
生命そのもの。
自分に残されていたはずの時間が、削り取られていく。
それと同時に、身体の奥からこれまで感じたことのない力が湧き上がった。
骨が軋む。
筋肉が悲鳴を上げる。
血が熱を帯び、全身を駆け巡る。
未来を代償に得た、あまりにも歪な力。
それが今、ヴァルガの身体へ宿っていく。
――パァァァン!!
乾いた音が部屋へ響き、辺りを満たしていた光が一瞬で消える。
「……っ。」
ヴァルガの身体が僅かに揺れ、そのままゆっくりと片膝をついた。
荒い息を吐きながら、自分の身体を見る。
身体が違う。
力が溢れている。
拳を握るだけで、空気が震えるようだった。
だが同時に、胸の奥には消えることのない空洞が生まれていた。
失った未来の重さだけが、そこに残されていた。
「契約は成立した。」
アトロポスは事務的に告げる。
「……お父さん?」
小さな声に、ヴァルガが振り返った。
サーシャが眠そうに目を擦りながら、こちらを見ていた。
「もう……終わったの?」
ヴァルガは一瞬だけ言葉を失った。
それでも、すぐにいつもの父親の顔へ戻る。
「ああ。」
「もうすぐ終わる。」
アトロポスは傍らに控えていた老聖職者へ視線を向けた。
「少女を別室へ。」
「呪いを解く。」
「かしこまりました。」
老聖職者がサーシャへ歩み寄る。
少女は不安そうにヴァルガを見た。
「お父さんも……一緒に来る?」
ヴァルガは娘の前へ膝をついた。
大きな手で、柔らかな髪を撫でる。
「ああ。」
「すぐに迎えに行く。」
「本当?」
「本当だ。」
それは、娘を安心させるための言葉だった。
そして。
自分自身が、どうしても信じたかった言葉でもあった。
サーシャは少しだけ安堵したように笑う。
「じゃあ……。」
「あとで、一緒に帰ろうね。」
ヴァルガの呼吸が、ほんの一瞬だけ止まる。
三か月後。
自分はもう、この子の隣にはいない。
その事実を知っているのは、自分だけだった。
ヴァルガは一度だけ目を閉じる。
胸を締めつける痛みを押し殺し、ゆっくりと目を開いた。
それでも。
笑った。
「ああ。」
「約束だ。」
サーシャは嬉しそうに頷く。
老聖職者に連れられ、部屋の奥へ歩いていく。
一度。
扉の前で振り返った。
「お父さん。」
「うん?」
「大好き。」
幼い笑顔。
ヴァルガは答えようとした。
だが。
喉の奥に何かが詰まり、声が出なかった。
代わりに。
力強く頷いた。
扉が静かに閉じる。
小さな足音が遠ざかっていく。
ヴァルガは、その音が完全に聞こえなくなっても、閉ざされた扉を見つめ続けていた。
やがて。
ゆっくりと拳を握り締める。
もう、引き返すことはできない。
未来は差し出した。
残された三か月は、娘の命を守るために使う。
たとえ。
その道の先で、どれほど多くのものを失うことになろうとも。
◇
ヴァルガは静かに目を開いた。
目の前には、迷いの森の集落を包む結界。
淡い緑の光が、夜の森を照らし続けている。
その向こうには。
父がいる。
母がいる。
子どもたちがいる。
誰もが、自分と同じように。
かけがえのない誰かを守ろうとしている。
昨日。
風を纏い、森を駆け抜けていった少女の姿が脳裏に蘇る。
振り返ることなく遠ざかっていった、小さな背中。
その姿が、サーシャと重なった。
(……俺は。)
(何をしている。)
答えは分かっていた。
この道が正しいはずはない。
誰かの娘を泣かせてまで。
自分の娘だけを救おうとしている。
その罪から、目を逸らすことなどできなかった。
それでも。
ヴァルガは胸元へ手を伸ばした。
首から下げていた小さなペンダントを開く。
中には、幼いサーシャの肖像が収められていた。
無邪気に笑う娘の顔を、ヴァルガはしばらく見つめる。
『あとで、一緒に帰ろうね。』
あの時。
自分は確かに頷いた。
だが。
もう、娘と歩める未来は残されていない。
だからこそ。
残された時間だけは。
少しでも長く、娘の隣にいたかった。
ヴァルガは進むしかなかった。
正しさではない。
誇りでもない。
ただ。
一人の父親として。
娘を生かすために。
その手を血で汚す覚悟を、ヴァルガはすでに選んでいた。




