第三十九話 神との契約
――カインたちが死竜と対峙する、少し前。
アルカディア神聖国の北。
アルカディア教会自治領。
信徒たちの祈りが集う聖地。
その中心にそびえ立つ白亜の塔は、雲を貫くかのように空高く伸びていた。
塔の最上階。
静寂に包まれた一室で、一人の男が窓辺に立っていた。
アトロポス。
白磁のように白い肌に、夜を溶かしたような長い黒髪。感情を映さない赤い瞳が、眼下に広がる街を静かに見下ろしている。
石畳を行き交う人々。市場で笑い合う親子。教会へ足を運び、アルカディア神の巨大な像へ祈りを捧げる信徒たち。
誰もが、それぞれの人生を生きていた。
喜びがあり、悲しみがあり、家族がある。
未来を信じて、今日を生きている。
だが。
アトロポスの瞳には、そのすべてが盤上に並ぶ駒としか映らない。
(次は、どこへ駒を置く)
彼の思考は、大陸そのものを俯瞰していた。
人も国も。
英雄も王も。
すべては目的を果たすための手段に過ぎない。
その時。
静寂を破るように、扉を叩く音が響いた。
アトロポスは思考を止め、ゆっくりと振り返る。
「……入れ」
扉が開き、一人の老人が頭を垂れて入室した。
教皇である。
「失礼いたします、アトロポス様」
老人は深々と頭を下げた。
「実は……少々、興味深い者がおります」
「素材としても十分価値があるかと存じまして、お耳に入れておいた方がよろしいかと思い、お伺いいたしました」
赤い瞳が、わずかに細められる。
「……ほう」
「一度、お会いになられてはいかがでしょう」
しばしの沈黙。
やがてアトロポスは静かに頷いた。
「いいだろう」
◇
――数刻前。
一人の獣人が、ようやくアルカディア教会自治領へ辿り着いていた。
獅子族の戦士。
ヴァルガ。
故郷ガレリア獣王国を発って、二か月。
娘に刻まれた呪いを解く方法を求め、各地を巡り続けてきた。
医師を訪ねた。
高名な魔術師を訪ねた。
神官にも縋った。
それでも。
娘に刻まれた呪いを解ける者は、一人としていなかった。
そして最後に辿り着いたのが、アルカディア教会自治領だった。
娘の右手に刻まれた呪いは、何一つ変わることはない。痛みもなく、身体を蝕むこともない。
今も娘は、十二歳の少女として普通に笑い、普通に歩いている。
だが。
その時が来れば、命を奪われる。
それだけは、どこへ行っても変わらなかった。
残された時間だけが、静かに失われていく。
その焦りが、ヴァルガをここまで突き動かしてきた。
応接室の椅子に腰掛けながら、ヴァルガは隣へ目を向ける。
そこには、一人の獣人の少女が静かに座っていた。
サーシャ。
十二歳。
右手には、包帯が巻かれている。
サーシャは父の顔をじっと見つめていた。
「……お父さん」
「なんだ?」
「……疲れてない?」
ヴァルガは少しだけ目を見開いた。
それから、大きな手で娘の頭を撫でる。
「心配するな」
「でも……」
「俺は獣王国一の戦士だぞ。このくらいで疲れるか」
そう言って、少しだけ笑ってみせる。
サーシャも小さく笑った。
「……うん」
ヴァルガは、その笑顔を見つめる。
元気なのだ。
どこから見ても、普通の少女だった。
だからこそ。
この娘に残された時間がわずかしかないという現実を、どうしても受け入れることができなかった。
「もう少しだ」
ヴァルガは娘の頭を撫でたまま、静かに告げる。
「もう少しだけ頑張れば、大丈夫だから」
その言葉は娘へ向けたものだった。
そして同時に、自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。
それからしばらくして。
長旅の疲れもあったのだろう。
サーシャは父の隣で、静かな寝息を立てていた。
ヴァルガは眠る娘を起こさぬよう、そっと頭から手を離す。
その時、応接室の扉が静かに開いた。
一人の老聖職者。
そして、その後ろから一人の男が姿を現した。
長い黒髪。
純白の法衣。
血の気すら感じさせない白い肌。
生者とも死者ともつかぬ無機質な存在感。
部屋の空気が、一瞬で変わる。
「アトロポス様」
老聖職者が恭しく頭を下げる。
「こちらの者でございます」
アトロポスは何も言わない。
ただ。
ヴァルガを一瞥しただけだった。
父親の焦りにも。
隣で眠る少女にも。
その赤い瞳は何の感情も映さない。
ただ。
右手に巻かれた包帯だけを見ていた。
その奥に刻まれた呪い。
ただ、それだけを。
「……あの」
ヴァルガが戸惑いながら口を開く。
その時。
初めてアトロポスが口を開いた。
「お前は」
「何を差し出せる」
静かな声だった。
しかし。
その一言が、部屋の空気を凍らせた。
「……え?」
意味が理解できない。
アトロポスは少女の右手から視線を離さない。
「厄介な呪いだ」
ヴァルガの目が見開かれる。
まだ何も説明していない。
包帯の下すら見せていない。
それなのに。
「……分かるのか?」
アトロポスは答えない。
「解くには、それに見合う対価が必要になる」
ヴァルガは俯いた。
ほんの一瞬だけ。
そして。
迷わず顔を上げる。
「……俺にあるものなら」
「全部だ」
拳を強く握り締める。
「俺の命で足りるなら、今ここで差し出します」
「だから……」
隣で眠る娘を見る。
「この子だけは助けてください」
その姿に。
獣王国最強の戦士の面影はなかった。
そこにいたのは。
娘を救いたいと願う、一人の父親だけだった。
アトロポスは静かにヴァルガを見つめる。
赤い瞳が細められる。
その口元に。
ほんのわずか。
笑みとも呼べぬ歪みが浮かんだ。
「……そうか」
静かな声が部屋に響く。
「ならば」
深淵を思わせる赤い瞳が、ヴァルガを見据える。
「取引をしよう」
その言葉が発せられた瞬間。
ヴァルガはまだ知らなかった。
その契約が。
己の運命だけでなく。
娘の運命をも。
大きく変えることを。




