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七星を廻る物語  作者: 豆柴の旅々
第四章 迷いの森

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第三十九話 神との契約

 ――カインたちが死竜と対峙する、少し前。


 アルカディア神聖国の北。


 アルカディア教会自治領。


 信徒たちの祈りが集う聖地。


 その中心にそびえ立つ白亜の塔は、雲を貫くかのように空高く伸びていた。


 塔の最上階。


 静寂に包まれた一室で、一人の男が窓辺に立っていた。


 アトロポス。


 白磁のように白い肌に、夜を溶かしたような長い黒髪。感情を映さない赤い瞳が、眼下に広がる街を静かに見下ろしている。


 石畳を行き交う人々。市場で笑い合う親子。教会へ足を運び、アルカディア神の巨大な像へ祈りを捧げる信徒たち。


 誰もが、それぞれの人生を生きていた。


 喜びがあり、悲しみがあり、家族がある。


 未来を信じて、今日を生きている。


 だが。


 アトロポスの瞳には、そのすべてが盤上に並ぶ駒としか映らない。


(次は、どこへ駒を置く)


 彼の思考は、大陸そのものを俯瞰していた。


 人も国も。


 英雄も王も。


 すべては目的を果たすための手段に過ぎない。


 その時。


 静寂を破るように、扉を叩く音が響いた。


 アトロポスは思考を止め、ゆっくりと振り返る。


「……入れ」


 扉が開き、一人の老人が頭を垂れて入室した。


 教皇である。


「失礼いたします、アトロポス様」


 老人は深々と頭を下げた。


「実は……少々、興味深い者がおります」


「素材としても十分価値があるかと存じまして、お耳に入れておいた方がよろしいかと思い、お伺いいたしました」


 赤い瞳が、わずかに細められる。


「……ほう」


「一度、お会いになられてはいかがでしょう」


 しばしの沈黙。


 やがてアトロポスは静かに頷いた。


「いいだろう」


◇


 ――数刻前。


 一人の獣人が、ようやくアルカディア教会自治領へ辿り着いていた。


 獅子族の戦士。


 ヴァルガ。


 故郷ガレリア獣王国を発って、二か月。


 娘に刻まれた呪いを解く方法を求め、各地を巡り続けてきた。


 医師を訪ねた。


 高名な魔術師を訪ねた。


 神官にも縋った。


 それでも。


 娘に刻まれた呪いを解ける者は、一人としていなかった。


 そして最後に辿り着いたのが、アルカディア教会自治領だった。


 娘の右手に刻まれた呪いは、何一つ変わることはない。痛みもなく、身体を蝕むこともない。


 今も娘は、十二歳の少女として普通に笑い、普通に歩いている。


 だが。


 その時が来れば、命を奪われる。


 それだけは、どこへ行っても変わらなかった。


 残された時間だけが、静かに失われていく。


 その焦りが、ヴァルガをここまで突き動かしてきた。


 応接室の椅子に腰掛けながら、ヴァルガは隣へ目を向ける。


 そこには、一人の獣人の少女が静かに座っていた。


 サーシャ。


 十二歳。


 右手には、包帯が巻かれている。


 サーシャは父の顔をじっと見つめていた。


「……お父さん」


「なんだ?」


「……疲れてない?」


 ヴァルガは少しだけ目を見開いた。


 それから、大きな手で娘の頭を撫でる。


「心配するな」


「でも……」


「俺は獣王国一の戦士だぞ。このくらいで疲れるか」


 そう言って、少しだけ笑ってみせる。


 サーシャも小さく笑った。


「……うん」


 ヴァルガは、その笑顔を見つめる。


 元気なのだ。


 どこから見ても、普通の少女だった。


 だからこそ。


 この娘に残された時間がわずかしかないという現実を、どうしても受け入れることができなかった。


「もう少しだ」


 ヴァルガは娘の頭を撫でたまま、静かに告げる。


「もう少しだけ頑張れば、大丈夫だから」


 その言葉は娘へ向けたものだった。


 そして同時に、自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。


 それからしばらくして。


 長旅の疲れもあったのだろう。


 サーシャは父の隣で、静かな寝息を立てていた。


 ヴァルガは眠る娘を起こさぬよう、そっと頭から手を離す。


 その時、応接室の扉が静かに開いた。


 一人の老聖職者。


 そして、その後ろから一人の男が姿を現した。


 長い黒髪。


 純白の法衣。


 血の気すら感じさせない白い肌。


 生者とも死者ともつかぬ無機質な存在感。


 部屋の空気が、一瞬で変わる。


「アトロポス様」


 老聖職者が恭しく頭を下げる。


「こちらの者でございます」


 アトロポスは何も言わない。


 ただ。


 ヴァルガを一瞥しただけだった。


 父親の焦りにも。


 隣で眠る少女にも。


 その赤い瞳は何の感情も映さない。


 ただ。


 右手に巻かれた包帯だけを見ていた。


 その奥に刻まれた呪い。


 ただ、それだけを。


「……あの」


 ヴァルガが戸惑いながら口を開く。


 その時。


 初めてアトロポスが口を開いた。


「お前は」


「何を差し出せる」


 静かな声だった。


 しかし。


 その一言が、部屋の空気を凍らせた。


「……え?」


 意味が理解できない。


 アトロポスは少女の右手から視線を離さない。


「厄介な呪いだ」


 ヴァルガの目が見開かれる。


 まだ何も説明していない。


 包帯の下すら見せていない。


 それなのに。


「……分かるのか?」


 アトロポスは答えない。


「解くには、それに見合う対価が必要になる」


 ヴァルガは俯いた。


 ほんの一瞬だけ。


 そして。


 迷わず顔を上げる。


「……俺にあるものなら」


「全部だ」


 拳を強く握り締める。


「俺の命で足りるなら、今ここで差し出します」


「だから……」


 隣で眠る娘を見る。


「この子だけは助けてください」


 その姿に。


 獣王国最強の戦士の面影はなかった。


 そこにいたのは。


 娘を救いたいと願う、一人の父親だけだった。


 アトロポスは静かにヴァルガを見つめる。


 赤い瞳が細められる。


 その口元に。


 ほんのわずか。


 笑みとも呼べぬ歪みが浮かんだ。


「……そうか」


 静かな声が部屋に響く。


「ならば」


 深淵を思わせる赤い瞳が、ヴァルガを見据える。


「取引をしよう」


 その言葉が発せられた瞬間。


 ヴァルガはまだ知らなかった。


 その契約が。


 己の運命だけでなく。


 娘の運命をも。


 大きく変えることを。

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