第三十八話 森を駆ける風
――カインたちが、北の遺跡からの帰路についていた頃。
深い森の奥。
世界から忘れ去られたかのような静けさの中に、その森は息づいていた。
幾千年という歳月を重ねた大樹は天を支え、鮮やかな新緑が森を彩っている。
朝露をまとった若葉は、木漏れ日の光を受けて翡翠のように輝く。
透き通る小川は森を静かに巡り、涼やかな春風が吹くたび、枝葉は優しくさざめいた。
鳥たちのさえずりは木々の間を渡り、森全体が一つの生命であるかのように穏やかな息吹を奏でている。
――人はこの場所を、迷いの森と呼ぶ。
古よりエルフたちが精霊と共に暮らし、誰にも侵されることなく守り続けてきた神秘の森。
その大樹の遥か高い枝の上で、一人の少女が空を見上げて寝転んでいた。
肩まで伸びた金色の髪が、風に揺れる。
髪の隙間から覗く、細く尖った耳。
新緑を思わせる澄んだ瞳が、木々の向こうに広がる空を見つめていた。
木漏れ日が頬を優しく照らし、小鳥たちがすぐ近くで羽を休めていた。
「また薬草採取かぁ……。」
「森は好きだけど、一度でいいから外の世界を見てみたいな。」
――少女の名は。
シルフィ・グリーンウッド。
ハイエルフの少女。
そして、七星の一人、ゼフィロス・グリーンウッドの娘である。
もっとも、本人にその自覚はあまりなかった。
昨日は森の巡回。
今日は薬草採取。
明日は狩り。
そんな穏やかな毎日を送っている。
それは幸せな日常だった。
それでも。
少女の胸の奥には、小さな憧れがあった。
(外の世界って、どんなところなんだろう。)
空の向こうには、人間の国や獣人の国、ドワーフの里がある。
そして、そこには多くの冒険者たちがいるという。
父や長老たちから話だけは聞いている。
けれど、自分は一度も見たことがない。
「いつか行ってみたいな。」
小さく呟いた、その時だった。
――ビリッ。
空気が震えた。
エルフたちが暮らす森を覆う結界。
同胞以外の侵入を拒む、古き守護の力。
その結界が、異変を告げた。
「え?」
シルフィは飛び起きる。
眠気など一瞬で吹き飛んだ。
(侵入者?)
あり得ない。
この結界は普通の者なら触れただけで意識を失う。
エルフが暮らす場所を知る者も、ごくわずかしかいない。
「まさか……。」
「結界が破られた?」
シルフィは枝から枝へ飛び移り、木々の上を風のように駆け抜けた。
父のもとへ向かうために。
◇
森の中心。
大樹をくり抜いて造られたゼフィロスの居宅。
――七星、ゼフィロス・グリーンウッドは、すでに異変を感じ取っていた。
後ろで束ねた、長い銀色の髪。
翡翠のような緑の瞳が、静かに細められる。
その時、扉が勢いよく開いた。
「ゼフィロス様!」
飛び込んできたのは、森の警備を担うエルフの一人だった。
「外の結界が破られました! 侵入者は十数名。こちらへ向かっています!」
「十数名か……。」
ゼフィロスの瞳に鋭い光が宿る。
あの結界を突破できる者。
並の存在ではない。
「戦える者を集め、集落の守りを固めます。」
「ああ。無理に迎え撃つ必要はない。時間を稼げ。」
「承知しました!」
エルフは一礼すると、すぐさま部屋を飛び出していった。
ゼフィロスは部屋の奥へ向かう。
エルフたちが暮らす森を覆う守護結界は、すでに破られた。
ならば、せめて集落だけでも守らなければならない。
部屋の奥には小さな祭壇があり、その中央には一つの水晶が安置されていた。
ゼフィロスは静かに右手を添え、魔力を流し込む。
その瞬間、森全体の空気が変わった。
大地に眠る精霊たちが呼応するように目覚める。
迷いの森に満ちる膨大な魔力が水晶へ集まり、淡い光が幹を伝い、枝を渡って森の中心へ広がっていく。
やがて、集落を覆う巨大な光の膜が姿を現した。
――防衛結界。
先ほどの結界とは比べものにならない。
集落そのものを要塞へ変え、同胞以外を拒絶する最後の守り。
しかし、この結界は展開しただけでは終わらない。
維持するためには、水晶へ絶えず魔力を注ぎ続けなければならなかった。
ゼフィロスは水晶から手を離さない。
(この場を離れることはできない……。)
◇
その頃。
森の奥。
侵入者たちは歩みを止めていた。
先頭に立つのは、一人の獣人だった。
獅子族特有の人並み外れた巨躯に、鋭い眼光。全身から圧倒的な威圧感を放っている。
――ヴァルガ。
その背後には、黒装束の男たちが静かに控えていた。
ヴァルガは新たな結界を見上げる。
「……厄介だな。」
試すように右手を伸ばす。
結界へ触れた瞬間。
バチィッ!!
激しい雷撃が全身を駆け抜けた。
普通の者なら、その場で命を落としていてもおかしくない。
しかし。
ヴァルガは、わずかに腕を引いただけだった。
黒装束の男が尋ねる。
「如何いたしますか?」
ヴァルガは短く答える。
「人質を連れてこい。」
ほどなくして、数名のエルフが連行されてきた。
森を警備していた者たちだった。
ヴァルガは集落へ向かって声を張り上げる。
「聞こえているか!」
その声は森中へ響き渡る。
「明日、陽が落ちるまでに、この結界を解除しろ。」
「さもなくば――」
一瞬、言葉を切る。
「一人ずつ首を落とす。」
黒装束の男が静かに口を開いた。
「よろしいのですか。」
「見せしめに、一人殺した方が早いのでは?」
ヴァルガは視線を向けることなく答えた。
「俺が受けた命令は、迷いの森を制圧することだ。無益な殺しは命じられていない。」
低く響く声だった。
「従うなら、それでいい。」
黒装束の男は、それ以上何も言わなかった。
◇
ゼフィロスの居宅にも、その声は届いていた。
「明日、陽が落ちるまでか……。」
結界を解けば、集落は戦場になる。
しかし、結界を維持すれば、人質が命を落とす。
どちらを選んでも、多くの犠牲は避けられない。
その時、扉が勢いよく開いた。
「お父さま!」
「シルフィ……。」
娘の無事な姿を見た瞬間、鋭かったゼフィロスの瞳が、ほんの一瞬だけ父親のものへ戻った。
そして、決断する。
「書とペンを。」
「急げ。」
シルフィは慌てて机へ向かう。
ゼフィロスは素早く書状を書き上げ、それを娘へ手渡した。
「これを公国へ届けろ。」
「援軍を要請する。」
シルフィの顔が青ざめる。
「お父さまは……?」
「私はここを離れられない。」
ゼフィロスは静かに水晶へ視線を向けた。
「この結界を維持するため、絶えず魔力を注ぎ続けなければならない。」
「私が手を離せば、結界は消える。」
「明日、陽が落ちるまでは持たせてみせる。」
シルフィは唇を噛む。
「でも……。」
ゼフィロスは娘の肩へ手を置いた。
「お前は外の世界に憧れていたな。」
「ならば、この森の外へ行け。」
「この先は、お前が選べ。そして生きろ。」
「お前自身の人生を歩め。」
シルフィの瞳から涙が零れる。
「……嫌です。」
「お父さまを置いてなんて……。」
「父として命じる。」
ゼフィロスは真っ直ぐ娘を見つめた。
「生きろ。」
一瞬の沈黙。
「振り返るな。」
「時間がない。」
「行け。」
――シルフィは涙を拭う。
深く一礼すると、踵を返した。
もう振り返らない。
今はただ、父から託された使命を果たすために。
◇
森の外縁。
シルフィは枝から枝へ飛び移り、木々の上を駆けていた。
その時、ふと下へ視線を向ける。
一瞬。
地上に立つヴァルガと視線が交わった。
身体が震える。
それでも。
「行かなきゃ……。」
シルフィは前を向く。
「シルフィード!」
呼びかけに応え、中位精霊シルフィードが姿を現した。
次の瞬間、シルフィードが生み出した風が、新緑の枝葉を大きく揺らしながらシルフィの背中を強く押す。
その風を背に受け、シルフィは一気に加速した。
枝から枝へ。
木々の上を、風のように駆け抜けていく。
涙が視界を滲ませる。
それでも。
立ち止まることだけはしなかった。
黒装束の男が尋ねる。
「追わなくてよろしいのですか?」
ヴァルガは木々の上を遠ざかっていく少女の背中を、静かに見つめた。
「……放っておけ。」
迷いの森を、一人の少女が風のように駆け抜けていく。
父の想いを胸に。
故郷を救う、たった一つの希望を託されて。




