第三十六話 狂い始めた運命の歯車
――アルカディア教会自治領。
天へと聳える白亜の塔、その最上階にある教皇室。
その一室には、静かな時間が流れていた。
揺らめく蝋燭の炎が、重厚な壁に影を映している。
そこにいる者たちは、ただ静かに待っていた。
報告を。
勝利の知らせを。
ドラゴンゾンビを目覚めさせてから、すでに十分な時間が経っている。
本来ならば、とうに結果は出ているはずだった。
「……」
アトロポスは窓の外を眺めていた。
トライデン公国、エヴァンス領。
そこへ向かわせたのは、死してなお災厄を撒き散らす古代竜の亡骸。
ドラゴンゾンビ。
その存在がエヴァンスへ到達すれば、城壁は崩れ、騎士団は焼き尽くされ、街そのものが灰となる。
それが、彼らの描いた未来だった。
しかし、いくら待っても報告は届かない。
アトロポスが静かに振り返る。
「教皇。」
「は、はい!」
「報告はあったか?」
「い、いえ。まだ、何も届いておりません。」
教皇は深く頭を下げた。
一瞬の沈黙。
アトロポスは、壁にもたれ掛かる赤髪の男へ視線を向ける。
「ヘル。どうなっている?」
ヘルが面倒そうに顔を上げた。
「俺に聞かれてもな。」
「ちゃんと目覚めさせた。」
「あとはエヴァンスへ向かうはずだった。」
「なぁ、ラグエル?」
仮面で顔の半分を隠した少年のような男が、淡々と答える。
「勘違いするな。」
「俺は何もしていない。」
「お前をそこに移動させただけだ。」
「その後のことなど知らん。」
一瞬。
沈黙が落ちる。
ヘルが肩をすくめた。
「おいおい……。」
「お前もそこにいただろ?」
ラグエルは答えない。
アトロポスも、二人のやり取りを気には留めなかった。
静かに思考を巡らせる。
ドラゴンゾンビの移動速度、エヴァンスまでの距離、経過した時間。
すべてを当てはめる。
「……連絡がない。」
静かな声が部屋に響く。
「ドラゴンゾンビが動き続けているなら、すでに何らかの報告が入っているはずだ。」
「つまり――」
「倒された可能性がある。」
その言葉に、ヘルの表情が変わった。
「……は?」
「馬鹿な。ドラゴンゾンビだぞ?」
「古代竜の死体を、俺がアンデッドにしたんだぞ?」
声に苛立ちが混じる。
「まだ混乱しているエヴァンスに、そんな力があるはずがない。騎士団でも、冒険者でも簡単には止められない。」
「それを……倒した?」
信じられない。
その表情だった。
アトロポスは静かに問い掛ける。
「では、この状況をどう見る。」
ヘルは腕を組み、少し考え込む。
「可能性があるとすれば……。」
「冒険者か。」
「冒険者?」
「ああ。」
「腕の立つ連中が、たまたま居合わせた可能性はある。」
確かに。
可能性としては考えられる。
アトロポスは静かに目を閉じた。
「……リヴァルか。」
「あ?」
ヘルが怪訝そうにアトロポスを見る。
「いや。」
「何でもない。」
南の自由都市、リヴァル。
大陸中から、多くの冒険者が集う場所。
そこから公国へ。
そして、神聖国へ。
腕の立つ冒険者たちが自由に行き来できる以上、今後もこちらの計画へ介入される可能性がある。
ならば。
その道を断つ。
その途中にある、一つの森。
アトロポスの赤い瞳が、静かに細められた。
しかし、胸の奥にはまだ小さな違和感が残っていた。
(……何かが、おかしい。)
アトロポスの眉が、わずかに動く。
(私の想定した流れから、外れ始めている……?)
ほんの一瞬。
沈黙が流れる。
やがて、アトロポスは教皇へ視線を向けた。
「教皇。」
「例の者を連れて来い。」
「は、はい!」
教皇は深く頭を下げると、足早に部屋を後にした。
扉が閉まり、静寂だけが残る。
アトロポスはヘルを見る。
「念のため、遺跡を確認してこい。」
「えぇ……。」
ヘルは露骨に嫌そうな顔をした。
「また俺かよ。」
そう言ってラグエルを見る。
「頼む。」
「……分かった。」
次の瞬間、空間が静かに歪む。
気付けば、二柱の姿はもうなかった。
◇
――北の遺跡。
静まり返った地下空間。
崩れ落ちた岩盤と、焼け焦げた壁。
その奥には、巨大な竜の亡骸が横たわっていた。
空間が歪み、ヘルとラグエルが姿を現す。
ヘルは辺りを見渡し、言葉を失った。
「……」
本来なら、エヴァンスを滅ぼしているはずの災厄。
ドラゴンゾンビ。
しかし、その巨体は完全に沈黙していた。
深く裂けた首元。
崩れ落ちた鱗。
焼け焦げた岩肌。
周囲に刻まれた無数の戦闘痕。
ここで激しい戦いがあったことだけは、疑いようがなかった。
「誰が……。」
ヘルの表情から笑みが消える。
「誰が、こいつを倒した?」
ラグエルは答えない。
静かに周囲へ視線を巡らせる。
崩れた岩。
焼け焦げた地面。
竜の巨体に刻まれた、無数の傷。
その瞳が、ほんのわずかに細められる。
「……違う。」
ヘルが眉をひそめた。
「何がだ?」
ラグエルは答えない。
ただ静かに、戦いの跡を見つめていた。
◇
しかし、神々はまだ知らない。
人々の選択が、自らの描いた未来を変え始めていることを。
運命の歯車は。
誰にも気付かれぬまま。
静かに狂い始めていた。




