第三十五話 深まる絆
北の遺跡を後にした一行は、公国への帰路についていた。
日が傾き始め、春の空が茜色から群青へとゆっくり色を変えていく。
街道の両脇では、柔らかな若葉が夕風に揺れ、草木の青い香りが漂っていた。
地下の灼熱と、血と土埃に満ちた空気が。
まるで遠い出来事だったように感じられる。
やがて、往路でも野営した小さな湖へたどり着いた頃には、空に淡い月が浮かんでいた。
鏡のように静かな水面には月明かりが映り込み、新緑を渡ってきた夜風が吹くたび、銀色の水面へ小さな波紋が広がっていく。
馬車を止めると、リーナがアリアへ歩み寄った。
「アリア様。」
「戦いでお召し物も汚れております。」
「この湖で水浴びをなさってはいかがでしょうか?」
アリアは自分の服へ目を落とした。
泥や砂埃は簡単に払ったものの、汗や土の汚れまではどうにもならない。
隣を見ると、エリーもセシリアも同じように衣服を気にしていた。
「私は賛成。」
エリーが笑う。
「わ、私も……。」
セシリアも少し恥ずかしそうに頷いた。
「やっぱり、さっぱりしたいです。」
アリアも微笑む。
「じゃあ、少しだけ甘えようかな。」
その言葉を聞いたリーナとリズは同時に振り返った。
二人の視線が、ぴたりと男性陣へ向けられる。
その眼差しだけで十分だった。
「……。」
カインは思わず苦笑する。
「いやいや……。」
「覗いたりしませんから。」
その様子を見たレオンが豪快に笑った。
「ははは!」
「安心しろ。」
「俺には婚約者がいる。」
一同の動きが止まる。
「えっ?」
アリアが目を丸くした。
「レオン、婚約してたの?」
「ああ。」
レオンは照れもなく答える。
「父上が決めた相手だけどな。」
「幼い頃からの付き合いだ。」
「へぇ……。」
アリアもエリーも、少し意外そうな表情を浮かべる。
カインも素直に驚いていた。
「知らなかった。」
その隣で、セシリアだけは静かに微笑んでいた。
もちろん知っている。
腹違いの兄であるレオンの婚約者とは、幼い頃から何度も顔を合わせてきた。
以前なら。
この話を聞くだけで胸の奥が少し苦しくなった。
けれど。
今日は違う。
気付けば思い浮かんだのは。
自分を抱き上げ、迷いなくロープを登っていった少年の横顔だった。
(……あれ?)
(どうして……。)
自分でも理由は分からない。
それでも。
頬が少しだけ熱くなる。
セシリアは誤魔化すように、そっと視線を逸らした。
◇
男性陣が湖畔から離れると、リーナとリズが周囲の警戒にあたる。
遠くで小さな虫の音が聞こえる。
それ以外は、水面を渡る風の音だけだった。
月明かりに照らされた湖面は、まるで銀色の絹を敷き詰めたように美しい。
三人は衣服を脱ぎ、水へ足を入れる。
「つめたっ……!」
エリーが思わず肩をすくめた。
春とはいえ、日が落ちた湖の水はまだ冷たい。
それでも、火照った身体にはその冷たささえ心地よかった。
「……気持ちいい。」
アリアが思わず声を漏らした。
「生き返るね。」
エリーが笑いながら水を掛ける。
「きゃっ!」
不意を突かれたアリアが小さく声を上げる。
「もう。」
今度はアリアが笑いながら水を掛け返した。
「わっ!」
その水しぶきはセシリアにも飛ぶ。
「ふふっ。」
三人は顔を見合わせ、思わず笑い合った。
湖畔に少女たちの笑い声が響く。
戦いの傷も、心に残る恐怖も。
この時間だけは、忘れられるようだった。
月光を浴びたアリアの姿は、湖面に映る月と見紛うほど幻想的だった。
まるで、神話の絵画から舞い降りた水の女神のようだった。
「……きれい。」
思わずエリーが呟く。
「本当に……。」
セシリアも見惚れていた。
その時だった。
「あれ?」
エリーの視線が止まる。
「アリア。」
「手袋、外さないの?」
一瞬だけ、アリアの表情が固まった。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど、エリーはその変化を見逃さなかった。
アリアはすぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「うん。」
「実はね。」
「昔、右手に消えない傷を負ってしまって。」
「それ以来、あまり人には見せないようにしてるの。」
「そうだったんだ。」
エリーは静かに頷き、それ以上は何も聞かなかった。
アリアは少しだけ安堵したように笑う。
だが、湖面へ向けられた青い瞳には、どこか寂しさが宿っていた。
◇
一方その頃、少し離れた焚き火の前では。
「それにしても。」
レオンが串焼きを口へ運びながら笑う。
「カイン。」
「お前、本当に何も気付いてないんだな。」
「?」
カインは首を傾げる。
「何が?」
「いや。」
レオンは苦笑した。
「そのままでいてくれ。」
「……?」
意味が分からず、さらに首を傾げるカイン。
その様子に、レオンは肩を震わせて笑った。
◇
しばらくして、少女たちも焚き火へ戻ってきた。
日が沈んだ春の夜はまだ少し肌寒く、水浴びを終えた身体へ焚き火の温もりが心地よく染みていく。
「焼けたぞ。」
レオンが串焼きを差し出す。
「ありがとう。」
「いい匂い!」
エリーが嬉しそうに受け取る。
アリアも自然と笑みを浮かべた。
セシリアも穏やかな表情で席に着く。
焚き火を囲みながら、旅のこと、故郷のこと、他愛もない話で笑い合う。
この旅を始めた頃は、まだどこか遠慮の残っていた五人。
けれど今は、誰も気を遣い過ぎることなく、自然に言葉を交わしていた。
夜空には満天の星が広がり、静かな湖面には淡い月が揺れている。
新緑を渡る春の夜風が、焚き火の炎を静かに揺らした。
その炎を囲む五人の笑顔は、戦いの前よりも。
どこか近くなっていた。
穏やかな夜は。
ゆっくりと更けていく。




