第零話 別れと出会い
冒険者が集う街、自由都市リヴァル。
その郊外。街の喧騒から離れた静かな場所に、小さな孤児院があった。
隣には古い修道院が建ち、孤児院はそこで暮らす修道女たちによって運営されていた。
雨がしとしとと降る午後。
二人の男女が、孤児院を訪れた。
男の腕には、生まれて間もない赤ん坊が抱かれている。
男は赤ん坊を雨から守るように外套で包み、女はその隣で、我が子の顔をじっと見つめていた。
やがて、孤児院の扉が開いた。
「お待ちしておりました。」
姿を現したのは、年配の修道女だった。
この孤児院の院長を務める女性である。
院長は二人を中へ招き入れた。
◇
小さな応接室。
窓の外では、雨が静かに降り続いていた。
男は腕に抱いていた赤ん坊へ目を落とした。
穏やかな寝息を立てる、小さな男の子。
その顔を見つめていると、なかなか言葉が出てこなかった。
「……この子を、お願いします。」
ようやく、男が口を開いた。
院長は静かに頷いた。
「……事情は伺っております。」
男は赤ん坊を抱き直すと、その小さな顔を覗き込んだ。
「カイン。」
男の子は、何も知らずに眠っている。
「絶対に帰ってくるからな。」
その声は、どこか自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
隣にいた女も、そっと赤ん坊の頬へ触れた。
「……待っててね。」
男は懐から一つの革袋を取り出し、机の上へ置いた。
「もし、万一……三か月経っても私たちが帰らなければ、このお金で、この子を育ててください。」
院長は革袋へ目を落とした。
そして、二人の顔を見つめる。
「……分かりました。」
院長は静かに頷いた。
「責任を持って、大切にお預かりします。」
「お二人の無事なお帰りを、お待ちしていますね。」
「……ありがとうございます。」
男は深く頭を下げた。
そして、もう一度カインを見つめる。
懐から、一つの指輪を取り出した。
古びた銀色の指輪。
華美な装飾はなく、その表面には見慣れない紋様が刻まれていた。
男はしばらくそれを見つめた後、カインの小さな手へそっと握らせた。
「……よろしくお願いします。」
男はそう告げると、カインを院長へ預けた。
女は、なかなかその場を離れようとしなかった。
院長に抱かれた我が子を見つめ、もう一度、その小さな手を握る。
「……愛してる。カイン。」
小さな指が、女の指を握り返した。
「……っ。」
女は唇を噛み、俯いた。
男がそっと、その肩へ手を置く。
「……行こう。」
女は小さく頷いた。
二人は院長へ深く頭を下げると、孤児院を後にした。
外では、相変わらず雨が降り続いていた。
男と女は並んで歩き出す。
女は何度も振り返った。
そのたびに、孤児院の窓が少しずつ遠ざかっていく。
やがて、二人の姿は雨の向こうへ消えていった。
◇
一か月が過ぎた。
二か月が過ぎた。
そして、約束の三か月が過ぎた。
しかし、二人が戻ってくることはなかった。
それでも院長は、時折、孤児院の門へ目を向けていた。
いつか、あの二人が帰ってくるのではないかと。
だが、四か月が過ぎようとしても、二人が姿を現すことはなかった。
◇
夕暮れ。
西の空が茜色に染まり、孤児院の庭にも長い影が伸びていた。
その門の前に、一人の男が立っていた。
白髪の男だった。
五十代後半ほどに見えるが、その背筋は真っ直ぐに伸びていた。腕には一人の赤ん坊が抱かれている。
赤い髪をした、女の子だった。
男はしばらく孤児院を見つめた後、ゆっくりと門をくぐった。
やがて、扉を叩く。
――コンコン。
「はい。」
しばらくして、扉が開いた。
姿を現したのは、院長だった。
男の腕に抱かれた赤ん坊へ目を向け、穏やかに微笑む。
「どのようなご用件でしょう?」
そして、少し困ったように続けた。
「もしかして、その子を預けられるのですか?」
「……いえ。」
男は静かに首を振った。
「男の子を探しています。」
「男の子、ですか?」
「ええ。」
男は院長をまっすぐに見つめた。
「ここに、カインという男の子はいませんか?」
◇
――七年後。
初夏。
小鳥のさえずりが響く、緑豊かな森。
「待ってよ! エリー!」
木々の間を、一人の男の子が走っていた。
その少し先では、赤い髪の女の子が楽しそうに振り返る。
「カイン、早く! こっちこっち!」
「エリー! 本当に大丈夫なの?」
「何が?」
「じいちゃんに怒られない?」
「大丈夫! 大丈夫!」
エリーは胸を張った。
「私がいるもん!」
「……本当に大丈夫かなぁ。」
カインは不安そうに呟いた。
それでも、エリーの後を追って走り出す。
二人にとって、初めて足を踏み入れる森だった。
普段は村の近くで遊んでいるが、今日は少しだけ遠くまで来てしまった。
祖父からは、森の奥へ行ってはいけないと何度も言われている。
しかし、好奇心旺盛なエリーにとって、まだ見たことのない場所は魅力的だった。
「あっ! カイン、見て!」
「何?」
「変な虫!」
エリーが指差した先には、大きな葉の上を歩く、青く輝く甲虫がいた。
「うわっ! 本当だ!」
「綺麗だね!」
「うん!」
二人は顔を寄せ合い、しばらく甲虫を眺めていた。
やがて、甲虫は羽を広げ、森の奥へ飛んでいった。
「あっ、行っちゃった。」
「ねえ、もっと奥に行ってみようよ!」
「ええ!? まだ行くの?」
「大丈夫だって!」
エリーは笑いながら走り出した。
「ほら、カイン!」
「待ってよ!」
二人は木々の間を進み、小さなリスのような動物を見つけては追いかけ、珍しい花を見つけては足を止めた。
木漏れ日が差し込む森は、まるで二人だけの秘密の世界だった。
◇
その頃。
村の外れに建つ、一軒の家。
「カイン! エリー!」
家の中から、男の声が響いた。
白髪の男だった。
いつもなら、庭で遊んでいるはずの二人。
しかし、返事がない。
「……?」
男は庭へ出て辺りを見回したが、二人の姿はどこにもなかった。
「……どこへ行った?」
男は眉を寄せた。
◇
森の奥。
カインとエリーは、すっかり夢中になって歩いていた。
「ねえ、カイン!」
「何?」
「また今度も来ようね!」
「うん……。じいちゃんに怒られなかったらね。」
「もう! 心配しすぎだよ!」
エリーが笑った、その時だった。
――カサッ。
少し離れた、森の奥の茂みが揺れた。
「……ん?」
カインが足を止める。
「どうしたの?」
「今、何か動いた。」
二人は遠くの茂みへ目を向けた。
しばらく、何も起こらない。
だが。
――カサカサッ。
再び、葉が揺れた。
「……何だろう?」
エリーが小さく呟く。
やがて、茂みの奥から一つの影が現れた。
緑色の身体。
黄色く濁った目。
尖った耳と、醜く歪んだ顔。
ゴブリンだった。
「……え?」
カインは思わず息を呑んだ。
祖父から話には聞いていた。
だが、実際に見るのは初めてだった。
そして。
――ガサッ。
その後ろから、もう一体。
さらに、もう一体。
次々とゴブリンが姿を現した。
「ひっ……!」
エリーが小さく悲鳴を上げる。
「エリー、しっ!」
カインは慌ててエリーの手を引き、近くの大木の陰へ身を隠した。
二人は息を潜める。
(……静かに。)
カインがエリーを見る。
エリーは震えながら、小さく頷いた。
ゴブリンたちは、まだこちらを見ていない。
カインはそっと後ずさった。
エリーも、その後へ続く。
(……お願いだから、気づかないで。)
だが、その時だった。
――パキッ。
エリーの足元で、小枝が折れた。
(……しまった!)
エリーが顔を青くする。
その瞬間。
黄色い目が、一斉にこちらへ向けられた。
「……っ!」
ゴブリンたちが、ゆっくりと顔を歪める。
見つかった。
「エリー、逃げよう!」
「う、うん!」
二人は一斉に駆け出した。
背後から、耳障りな鳴き声が響く。
「ギャッ! ギャギャッ!」
ゴブリンたちが追いかけてきた。
「はぁ……はぁ……!」
カインは必死に走った。
エリーの手を引きながら、木々の間を駆け抜ける。
だが、七歳の子供の足では、そう長くは走れない。
「カイン……!」
「もう少し! 頑張って!」
その時だった。
「きゃっ!」
エリーが木の根に足を取られ、地面へ倒れ込んだ。
「エリー!」
カインは慌てて引き返した。
「大丈夫!? 立てる?」
「うっ……。」
エリーは起き上がろうとしたが、足に痛みが走った。
「いたい……。」
背後から、ゴブリンたちの声が近づいてくる。
カインは振り返った。
もう、すぐそこまで来ていた。
「……っ!」
カインは辺りを見回し、地面に落ちていた一本の木の枝を拾い上げた。
両手で、ぎゅっと握り締める。
「来るな!!」
声を張り上げた。
だが、ゴブリンたちは止まらない。
むしろ、楽しそうに顔を歪めていた。
「ひっ……ひっく……。」
背後で、エリーが泣いている。
「おじいちゃぁん……。」
その声を聞きながら、カインは必死に考えた。
(……どうしよう。)
目の前には、何体ものゴブリン。
自分はまだ、まともに剣を使うこともできない。
怖い。
逃げたい。
でも。
(……エリーを守らないと。)
一体のゴブリンが、ゆっくりと近づいてきた。
その後ろにも、何体ものゴブリンがいる。
カインは震える足で、一歩前へ出た。
(俺が……守るんだ!)
その瞬間だった。
――カチリ。
何かが、身体の奥で噛み合った。
握り締めた木の枝に、蒼白い光が宿る。
「……え?」
カインは目を見開いた。
何が起きたのか分からない。
それでも、目の前にはゴブリンが迫っていた。
「うわぁぁぁぁ!!」
カインは叫びながら、ゴブリンへ向かって駆け出した。
ゴブリンは、そんな小さな子供を見て嗤っていた。
避けようともしない。
カインが木の枝を振り上げる。
そして、力いっぱい振り下ろした。
――グシャッ!!
木の枝がゴブリンの頭へ深く食い込み、その身体がぐらりと揺れた。
――バキッ!!
凄まじい衝撃に耐え切れず、木の枝が折れた。
「……え?」
カインは呆然と立ち尽くした。
ゴブリンはそのまま、地面へ崩れ落ちた。
残るゴブリンたちは、呆然とその光景を見つめていた。
まさか、子供が仲間を倒すとは思っていなかったのだろう。
だが、次の瞬間。
「ギャアアアッ!!」
ゴブリンたちが怒りに顔を歪め、一斉に叫び声を上げた。
その時、カインの身体から突然力が抜けた。
「……っ!」
握っていた折れた木の枝が、手から滑り落ちた。
視界が揺れる。
(……エリー。)
振り返ろうとしたが、身体が動かない。
そのまま、カインは地面へ倒れ込んだ。
「カイン!?」
エリーが悲鳴を上げる。
カインは動かなかった。
「カイン! カイン!!」
必死に呼びかける。
だが、返事はない。
その間にも、怒り狂ったゴブリンたちが近づいてきていた。
一体。
また一体と、倒れたカインへ向かって駆け出してくる。
「いや……。」
エリーは震える手を伸ばした。
「いやぁぁぁ!!」
その時だった。
背後から、詠唱が聞こえてきた。
「大気を震わせ、眼前のすべてを呑み込め。」
「響きの奔流よ、彼方まで駆け抜けろ。」
「――《響界衝》!!」
――ドォォォォォン!!!
凄まじい音の衝撃が、森を貫いた。
迫り来るゴブリンたちは、抵抗する間もなく吹き飛ばされた。
大地が震え、周囲の木々が激しく揺れる。
そして、静寂が訪れた。
エリーは呆然と、その光景を見つめていた。
先ほどまで迫っていたゴブリンたちの姿は、もうどこにもなかった。
その時。
「カイン! エリー!」
聞き慣れた声が響いた。
「……おじいちゃん。」
エリーの目に、涙が浮かぶ。
良かった。
おじいちゃんが来てくれた。
そう思った瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んだ。
「……あ。」
視界がぼやける。
身体から力が抜け、エリーはその場に崩れ落ちた。
遠ざかっていく意識の中で、誰かが自分の名前を呼んでいる。
その声を聞きながら、エリーは静かに目を閉じた。




