第百十一話 戦う理由
――その日の夕刻。
茜色に染まる白亜の塔。
最上階。
蝋燭の灯りと、窓から差し込む細い西日だけが薄暗い部屋を照らしていた。
ヴァルガが低い声で口を開く。
「依頼は果たした。」
「いい加減、娘に会わせてくれ!!」
アトロポスは表情一つ変えない。
「契約は、まだ果たされていない。」
ヴァルガが眉をひそめる。
「……なんだと?」
「契約は、私の依頼には絶対に従うこと。」
「一度果たせば終わりとは言っていない。」
「よって、貴様にはまだ働いてもらわねばならぬ。」
ヴァルガの表情が険しくなる。
「……謀ったな。」
左肩へ背負った大剣に、静かに手が掛かった。
その時だった。
教皇が慌てて叫ぶ。
「む、娘の身はこちらが預かっていることを忘れるな!!」
「…………。」
ヴァルガは歯を食いしばる。
大剣の柄を握る左手に力が籠もった。
このまま振り抜けば、目の前の男たちを斬ることはできる。
だが。
その手を、ゆっくりと離した。
「……それで。」
「依頼とは何だ?」
アトロポスは静かに答えた。
「カインという者を殺せ。」
「……カイン?」
ヴァルガは静かに目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、迷いの森。
何度倒れても立ち上がった黒髪の少年。
圧倒的な実力差を前にしても、決して退かなかった。
仲間を守るため、何度でも自分へ向かってきた。
(……あの小僧か。)
ヴァルガはゆっくりと目を開く。
「……理由は?」
「貴様が知る必要はない。」
「殺せ。」
「それだけだ。」
「…………。」
ヴァルガは左手を強く握り締めた。
拒むことはできない。
サーシャの命は、奴らの手の中にある。
しばらくの沈黙の後、ヴァルガが低い声で尋ねる。
「…………それだけか?」
「そうだ。」
「では、依頼を果たした暁には娘と会わせてもらう。」
「約束だ。」
アトロポスは静かに頷いた。
「いいだろう。」
ヴァルガは何も答えなかった。
ただ一度だけ、胸元のペンダントへ手を添えた。
◇
ヴァルガは、昨日のやり取りを思い返していた。
目の前にはカインが立っている。
「……決闘?」
「そうだ。」
「なぜ?」
「…………。」
「それは答えられん。」
カインは辺りを見回した。
大きくひび割れた地面。
その向こうでは、学生たちが不安そうにこちらを見つめている。
カインは再びヴァルガへ視線を戻した。
「……俺が決闘を受ければ、他の人には手を出さないか?」
「ああ。」
ヴァルガはほんの僅かに目を細めた。
「我が名はヴァルガ。」
「獅子族の戦士。」
「我が誇りに懸けて、この場にいる者には手を出さぬと誓おう。」
カインはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「……分かった。」
「決闘を受ける。」
「…………。」
ヴァルガはふと、首から下げたペンダントへ手を添えた。
静かに蓋を開く。
そこには、幼いサーシャの小さな肖像画が収められていた。
満面の笑みを浮かべる、愛する娘の姿。
(サーシャ。)
ヴァルガはしばらく、その顔を見つめていた。
(俺の命は、もう長くはない。)
(おそらく、再び会うことはできないだろう。)
「…………。」
指先に力が入る。
(……すまない。)
静かにペンダントを閉じた。
だが、すぐには胸元へ戻さなかった。
握り締めたまま、ヴァルガはカインを見る。
迷いの森。
何度倒れても立ち上がり、自分へ向かってきた少年。
今も、その目は変わっていなかった。
(……変わらんな。)
ヴァルガはゆっくりと息を吐いた。
そして、ペンダントを胸元へ戻す。
(ならば――。)
(確かめさせてもらうぞ。)
(カイン。)
左手が、肩に背負った大剣の柄を握る。
ゆっくりと引き抜いた。
ズンッ!!
巨大な切っ先が、地面すれすれで止まる。
ヴァルガは大剣を持ち上げ、その切っ先を真っ直ぐカインへ向けた。
「いくぞ!!」
「カイン!!」




