第百三話 回想
それから数日が過ぎた。
セントリア学園。
初夏の日差しが大きな窓から差し込み、廊下を行き交う学生たちの声が賑やかに響いている。
「カイン! 早く!」
聞き慣れた声に、カインが振り返る。
廊下の向こうでは、ソフィアが大きく手を振っていた。
「次の講義、始まっちゃうよ!」
「あ、うん!」
カインも慌ててその後を追う。
少し前までの出来事が嘘だったかのように、ソフィアは元気に学園へ通っていた。
講義中も以前と変わらない。
教師の話を真剣に聞きながら、時折ノートへ何かを書き込んでいる。
そして、講義が終われば真っ先にカインたちのところへやってくる。
「ねえ、カイン。さっき先生が言ってたところなんだけど――」
そんな姿を見ていると、あの森での出来事が遠い昔のことのようにも思えた。
いつものソフィアがいる。
それだけで、カインは少し嬉しかった。
◇
学園には、いつもの日常が戻っていた。
しかし、以前とは少しだけ違う。
ここ数日、廊下を歩いていても、中庭を通っていても、何度も同じ話題が耳へ入ってくる。
「今年は誰が優勝すると思う?」
「やっぱりクロフォードじゃないか?」
「でも、一年にも強い奴がいるって聞いたぞ。」
剣術大会。
開催の日が近づくにつれ、学園中が少しずつ熱を帯び始めていた。
校舎の掲示板には大会の組み合わせを確認する学生たちが集まり、休み時間になれば誰が勝つのかという話で盛り上がる。
放課後の訓練場からも、普段以上に木剣のぶつかり合う音が聞こえていた。
その日の帰り。
カインたちが訓練場の近くを通りかかると、何人もの学生がまだ稽古を続けていた。
その中に、見覚えのある姿がある。
「……クロフォードさん。」
クロフォードは一人、黙々と木剣を振っていた。
額には汗が滲み、制服の袖も僅かに土で汚れている。
それでも休もうとはしない。
一度剣を振り下ろすと構え直し、再び振る。
何度も。
何度も。
同じ動きを繰り返していた。
「すごいわね……。」
隣を歩いていたエリーが呟く。
カインも静かに頷いた。
「うん。」
以前、剣術の講義で見かけた時から、クロフォードが強いことは分かっていた。
だが、今の姿から感じるものは、それだけではない。
まるで何かに追いつこうとしているように、ただひたすら剣を振り続けている。
その時、クロフォードがふと顔を上げた。
カインと目が合う。
ほんの僅かな沈黙。
クロフォードは小さく頷くと、再び木剣を構えた。
カインも何も言わず、その場を後にした。
まだ、この時のカインには分からなかった。
クロフォードが、何のためにそこまで剣を振り続けているのか。
そうして日々は過ぎていき――。
剣術大会の前日を迎えた。
◇
夕陽に染まるアリアの別邸の中庭へ、木剣のぶつかり合う音が響いていた。
――ガッ!
――カンッ!
二つの影が何度も交錯する。
踏み込み。
刺突。
斬り払い。
互いの木剣が激しくぶつかり、乾いた音が夕暮れの空へこだました。
アリアが鋭く踏み込む。
右上から振り下ろされる木剣。
以前のカインなら、すぐに剣を合わせていた。
だが、今は違う。
剣だけを見ない。
アリアの肩。
踏み込んだ右足。
僅かに前へ傾いた重心。
そのすべてを見て、カインは半歩だけ身体を引いた。
木剣が鼻先を通り過ぎる。
その瞬間、カインが踏み込んだ。
振り抜いた直後のアリアの右側へ回り込み、木剣を横薙ぎに振るう。
「っ!」
――カンッ!
アリアもすぐに剣を返した。
二本の木剣がぶつかり、乾いた音が中庭へ響く。
今度はカインも追わない。
一度距離を取り、再びアリアの構えを見る。
アリアの目が僅かに細くなった。
(……変わった。)
以前なら、今の一撃を剣で受けていた。
そして、そのまま次の攻撃へ移ろうとしていた。
今は違う。
受ける必要のない攻撃は躱す。
反撃できる時だけ前へ出る。
隙がなければ、無理に追わない。
防御を意識すると話した、あの日の稽古から、カインの剣は確かに変わっていた。
攻める時は攻め、守る時は守る。
攻撃の緩急だけではなく、攻めと守りの緩急も以前とは比べものにならないほど滑らかになっている。
アリアが再び踏み込んだ。
今度は先ほどより速い。
カインは木剣を構えたが、すぐには動かない。
振り下ろされる瞬間まで引きつける。
――カンッ!
ぶつかる直前、カインは木剣を斜めに合わせ、アリアの一撃を僅かに外へ逸らした。
そのまま一歩踏み込み、木剣をアリアの肩口へ振るう。
「……!」
アリアが身体を捻る。
木剣が金色の髪を掠めるように通り過ぎた。
二人は互いに距離を取る。
しばらくカインを見つめていたアリアは、やがて静かに木剣を下ろした。
「カイン。」
「明日は大会だから、今日はこの辺にしよう。」
カインも木剣を下ろす。
「うん。」
二人は額に滲んだ汗を拭い、静かに息を整えた。
アリアは目の前に立つカインを見つめる。
修行を始めた頃より、確実に強くなっていた。
西の空へ沈みゆく夕日が、二人の姿を長く石畳へ映していた。
◇
その夜。
カインは自室の姿見の前に立っていた。
鏡の中には、静かにこちらを見返す自分の姿がある。
これまでの剣術修行で、確かに強くなった。
アリアから剣を学んだ。
カイザーとの戦いでは、剣だけを見ていては勝てないことを知った。
相手の肩を見る。
足を見る。
重心を見る。
攻めるだけではなく、相手がどう攻めてくるのかを考える。
少しずつではあるが、自分の剣が変わっていることは、カイン自身にも分かっていた。
それでも、脳裏から離れない言葉があった。
『カインよ。』
『お主の剣は……。』
あの時、ルーシーは何を言おうとしていたのか。
まだ何かが足りないのか。
その答えは分からない。
カインはゆっくりと右手を見下ろした。
何度も剣を握り、傷を負っても離さなかった手。
静かに拳を握る。
そして、鏡の中の自分をもう一度見つめた。
部屋の中には、夜の静けさだけが流れていた。
◇
同じ頃。
別の屋敷では、クロフォードも稽古を終えていた。
汗を拭い、自室へ戻る。
姿見に映る自分を見つめながら、ふと小さく呟いた。
「……あれから。」
「四年か……。」
クロフォードは静かに目を閉じた。
脳裏へ浮かんだのは、幼い日のクロエだった。
家が近かったこともあり、幼い頃はいつも一緒に過ごしていた。
明るい笑顔。
好奇心旺盛な性格。
気になるものを見つけては、楽しそうに手を引いていく。
そんなクロエのことが、クロフォードは大好きだった。
両家の親たちも、いずれ二人を婚約させようと考えていた。
しかし、その矢先。
クロエは病に倒れた。
昨日まで笑っていた少女が、屋敷から姿を消した。
クロフォードは目の前が真っ暗になった。
何もできない自分から逃げるように、剣術へ打ち込んだ。
朝も。
昼も。
夜も。
ただひたすら、剣を振り続けた。
やがて、クロエが回復したと聞いた日。
クロフォードは心の底から神へ感謝した。
もう一度、あの笑顔を見ることができる。
そう思っていた。
しかし、クロエが学園へ入学してから、二人の間には距離ができていた。
幼い頃のように、一緒に過ごすことはなくなっていた。
もしかすると、別に想いを寄せる相手がいるのかもしれない。
その考えが胸を締めつける。
それでも、諦めることはできなかった。
一度だけ、自分の気持ちを伝えたい。
そのためには、明日の剣術大会で優勝しなければならない。
自分の心へけじめをつけるためにも。
クロフォードは勝利を誓った。




