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第9話 折れた道しるべ

  

 森へ向かうにつれて、川の音が少しずつ遠ざかっていった。

 日は沈みかけ、木々の影が少しずつ濃くなっている。

 空には月明かりが目立ち始めていた。


 橋から続いている道は、森の木々の影へ吸い込まれるように延びている。

 ミニマップに表示された地名は《月影の森》。

 この辺りはベルカ村を出たばかりの初心者プレイヤーが、最初に(ウルフ)と戦う場所の一つだ。


 CROを始めたばかりの頃は、ベルカ村の外へ出た瞬間にこの世界の広さに圧倒された。

 村の柵を越えて、木橋を渡って、森へ続く道を抜ける。

 それだけで急に遠くまで来たような気がした。


 どこまで行けるのか。

 この世界に本当に終わりがあるのか。

 そのすべてがまだわからない感覚に、ワクワクした。


 そのまま調子に乗って森の奥へ進みすぎ、名前表示が赤い上位種の狼――《シェイドウルフ》に追いかけられ、何もできないまま倒されたことも今となっては良い思い出だった。


 レベル44になった今の俺から見れば、ここは初期村の外れにある小さな森でしかない。

 (ウルフ)はもう脅威とは呼べなかった。


 あの頃は遠く感じた場所も、今の俺にとってはもう通り過ぎた場所だ。

 そう思ってしまう自分に、少しだけ寂しさを感じる。


 俺は立ち止まって、スカウト系のスキル《探知》を使った。

 視界の端に薄い波紋のような表示が広がる。


 近くに敵影が二つ。

 森の入口付近をうろついている、ただの《ウルフ》だろう。


 このあたりのウルフのレベルは4。

 今の俺なら、警戒する相手ですらない。

 ただ、初心者の頃は草むらの向こうであの狼がこちらを向くだけでずいぶん怯えたものだ。


 ちょうどそのとき、ウルフの感知範囲に入ったらしく、低い唸り声を上げて走ってきた。

 名前表示は濃い青だ。


「……懐かしいな」


 俺が短剣を抜いた時には、すでに《ウルフ》が跳びかかってきていた。


 動きは単調で分かりやすい。

 今の俺からすればスピードもかなり遅い。

 攻撃を目で見てから横へ避け、そのままウルフの首元に短剣を落とした。


 一撃だった。


 ドロップもない。

 経験値も入らなかった。


 初心者の頃はこの《ウルフの皮》を五つ集めるクエストだけで、ずいぶん時間がかかっていた気がする。

 俺は短剣を腰にしまい、改めて周囲を見た。


―――――

《後日談クエスト:報告書の空白》


次の未整理記録を確認してください。

対象:《折れた道しるべ》

―――――


 今のクエストに表示されているのはそれだけだ。

 場所の名前ではない。

 道の名前でもない。

 ミニマップに目的地の印が出ているわけでもない。


 ベルカ村の近くの橋の下に、泥に埋もれた荷札があった。

 なら、この道しるべもあまり遠くない場所にありそうな気がする。


 森の中へ続いている道は、初心者が迷わないようにまっすぐ整えられている。

 草は短く、採取ポイントは淡く光り、奥へ進む方向も分かりやすい。


 2年前、初めて俺が歩いたのもこの道だ。

 狼から逃げる時も、薬草を探す時も、クエストを報告しに戻る時も、ミニマップに出ている道しか見ていなかった。


 けれど、今は探しているものが違う。

 俺は道から少し外れて、周囲の木の根元や草むらの奥を順に見ていく。


 最初に見つけたのは倒れた枝だった。

 次に見つけたのは古い大きめの石。

 どちらも調べても表示は出ない。


 ただの背景だ。


 そう思って通り過ぎようとした時、茂みの奥にまっすぐな木の棒のようなものが見えた。


 自然に落ちた枝にしては形が整いすぎている。

 俺は草をかき分けて、そこへ近づいてみる。


 土と苔に少し埋もれていたそれは、古い木の柱だった。

 根元から折れて倒れている。

 さらに近くには割れた板も沈んでいた。


 泥を指で払うと、かすれた文字が少しだけ読める。


 ――ベルカ村。


 その下に、もう一行。


 ――月……の森。


 そしてさらに下。

 板が割れているせいで、文字の途中から先がなくなっている。


 ――北……?


 読めたのはそこまでだった。


 ――クエストが更新されました。


―――――

《後日談クエスト:報告書の空白》


次の未整理記録を確認してください。

対象:《壊れかけた小屋》

―――――


 派手な達成音は鳴らなかった。

 経験値も出ない。

 ただ、一つだけ記録がつながったことが分かった。


 俺は折れた道しるべを見下ろす。

 これは今の初心者向けの案内板ではない。

 森へ続く道を案内するためだけなら、ミニマップとクエスト表示で十分だ。

 もしこれが折れていなかったとしても、初心者プレイヤーはこんな場所にある道しるべを見ることはないだろう。


 それでも、ここにあった。


 顔を上げると、北方向へ向けて草の間に細い筋が見えた。

 道と呼ぶには頼りない。

 左右から伸びた草が覆いかぶさり、足元の土も柔らかい。

 普通に歩いていれば、ただの茂みにしか見えないような場所だ。


 それでも、よく見れば少し違う。


 草が倒れている方向。

 薄く削れている地面。

 低い枝の先が折れ、誰かが無理に通ったような跡が残っている。

 もともと使われなくなっていた古い道を、最近になって誰かが少しだけ通れるようにしたように見えた。


 俺はその場にしゃがんだ。

 泥の残った部分には細い轍のような跡がかすかに残っていた。

 ただのプレイヤーが通った跡とは思えなかった。


 橋の下に落ちていた荷札。

 誰も来ないような場所に倒れていた道しるべ。

 その先に地図に載っていない細い道が残っている。

 少しずつ一本につながっていく感覚がする。


「あとは……壊れかけた小屋か……」


 場所の名前というより、見たままの記録に近い。

 おそらく、この折れた道しるべの先に小屋がある。

 それ以上のことはまだ分からない。


 荷札に残っていた文字と関係があるのか。

 《第七補給隊名簿》につながるものなのか。


 それを確かめるには、この草に隠れた道を実際に進んでみるしかない。


 俺はもう一度だけミニマップを確認してから、草の奥へ続く細い跡へ足を踏み入れた。


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