第71話 逃げる先へ
低く身構えていた《紅狼ヴァルグ》の幼獣が地面を蹴った。
「ザン君、私から離れるなよ!」
ロヴェルがインベントリから白い石を取り出す。
――《即時帰還石》。
危険があれば使うと見せてもらっていたものだ。
ロヴェルは取り出した帰還石をすぐに足元へ振り下ろす。
白い石が地面へ届くより先に、幼獣が俺たちの間へ飛び込んできた。
「っ――!」
俺とロヴェルはとっさに飛び退いた。
幼獣が俺たち二人の間を駆け抜け、その肩がロヴェルの振り下ろした腕をかすめる。
弾かれた手から帰還石が飛び、谷側の赤い地面へ落ちた。
そのまま岩陰の脇にある草むらへ転がっていく。
「帰還石が――」
「――ザン君、だめだ。親が来ている!」
幼獣は赤い土を削りながら急停止し、勢いのまま体を反転させた。
その背後から雄と雌も一気に駆けてきていた。
ロヴェルが俺の前へ出て、ショートボウを構える。
背後にはここまで下ってきた細い道が斜面の上へ続いている。
逃げるなら来た道を戻るしかない。
雄は谷側からまっすぐ迫り、雌だけが斜面を横切って道のない右側の岩場を駆け上がっていた。
幼獣は二頭の間でこちらを見たまま、飛びかかる機会をうかがっている。
「通常の帰還石を使いますか?」
幼獣が再び身を低くした。
ロヴェルがショートボウを向けると、すぐには飛びかからず、左右へ小さく足を動かしながら機会をうかがう。
その間にも雄は谷側から距離を詰め、雌は道のない右側の岩場を駆け上がっていた。
「その時間は待ってはくれないだろうな……」
通常の帰還石は転移が完了するまで十秒ほどかかる。これだけ近い距離で三頭に狙われたまま、転移が終わるまで待つのは難しいだろう。
幼獣が地面を蹴り、今度はロヴェルへ飛びかかった。
ロヴェルは横へ跳びながら矢を放つ。
矢が幼獣の足元へ突き刺さり、幼獣は反射的に外側へ跳んだ。
ロヴェルは着地すると、背後の細い道を一度だけ確認した。
「私が逃げ道を作る。その隙に君は上へ戻ってすぐ帰還石を使うんだ」
「ロヴェルさんは?」
「……すぐに追う」
ロヴェルが逃げ道を作れば、俺だけなら来た道へ戻れる。
でも、それではロヴェルを三頭の前へ残すことになる。
これはゲームだ。
ここで倒されても現実の命を失うわけではない。
それでも攻撃を受ければ相応の衝撃はある。
死に戻れば経験値をかなり失い、装備や所持アイテムを落とすことも多い。
ロヴェルだけを残して逃げる気にはなれなかった。
「やっぱり俺だけ先には行けません」
「……ザン君」
「どちらかが残るなら、デスペナルティの軽い俺の方です」
「……君を誘ったのは私だ。それは認められない」
雄の足音がさらに大きくなっていた。
右側では岩場を駆け上がる雌の姿が岩陰の向こうへ消える。
「なら道は二つです。あの《即時帰還石》を回収して二人で使うか、隙を見て二人で走るか」
ロヴェルが何か言い返そうとしたそのときだった。
迫り続けていた雄がすでに目の前まで距離を詰めていた。
ロヴェルは言葉を切り、弦を引き絞る。
漆黒の矢が雄の踏み出した前脚の外側へ突き刺さった。
雄のHPゲージはほとんど動かない。
それでも前脚の着く位置がわずかにずれ、突進の軌道が横へ逸れた。
細い道へ戻る進路が一瞬だけ空いた。
「今だ、走るぞ!」
俺はロヴェルと同時にここまで下ってきた細い道へ向かって駆け出した。
――その瞬間、右側の岩陰から雌が飛び出した。
道のない岩場を先回りしていた雌の爪がロヴェルへ振り下ろされる。
俺とロヴェルはほぼ同時に《シフトステップ》を使った。
俺は雌の爪から離れるように斜め後ろへ。
ロヴェルは逆に雌の懐へ踏み込み、振り抜かれた腕の下を抜ける。
腰の短剣が鞘から抜かれた。
「《リバースエッジ》――!」
体を返す動きに合わせ、短剣が雌の踏み込んだ前脚を横から切り払った。
傷は浅い。
それでもレベル60の《パスファインダー》が放った一撃だ。
支えを外された雌の体が大きく傾き、追撃が一拍遅れた。
「そのまま走るよ!」
ロヴェルは俺と並んで細い道へ向かう。
こちらへ向きを戻した雄が俺たちの背後から迫ってくる。
その横を幼獣も並ぶように走ってきた。
俺は走りながらショートボウを構え、幼獣の足元へ矢を放つ。
幼獣が反射的に外側へ跳んだ。
「今です!」
俺たちはその隙に雄の突進を斜めに避け、細い道へ戻ろうとした。
体勢を立て直した雌が先回りしたまま道を塞いでいる。
俺とロヴェルが左右へ分かれると、雌はロヴェルの方へ体を向けた。
その反対側、雌と道脇の岩の間に一人分の隙間が生まれた。
「ザン君、先に道へ入れ!」
一人分の隙間しかない以上、今はどちらかが先に抜けるしかなかった。
俺が頷き、その隙間へ踏み込もうとした瞬間、幼獣が斜めに飛び込んできた。
雌がリザードの進路へ回り込んだ姿が頭の中で重なる。
幼獣も同じように俺たちの逃げる先を塞いでいた。
背後から雄が迫り、雌と幼獣も身を低くする。
幼獣が先に地面を蹴った。
――その瞬間、横から小さな影が飛び込んできた。
両手に装備した黒鋼色の双爪が幼獣の攻撃を横から弾く。
硬い音が響き、進む方向を外された幼獣が俺の横を駆け抜けた。
さらに飛び込んできた影は止まらない。
続けて迫っていた雄の前へ滑り込み、振り下ろされた一撃を受け流す。
その勢いのまま雄の脇を抜け、俺たちの前へ着地した。
頭上に名前が表示される。
Nanaree――小柄な猫型のビーストフォークだ。
「ナナさん!」
「即時帰還石は?」
「雄の向こうにある草の中だよ」
Nanareeは帰還石の方角を一瞬だけ見て、すぐに三頭へ視線を戻した。
「今は無理。二人とも先に行って」
「ナナさんは?」
「私はあとから行く。もう二人もすぐ来るから」
Nanareeは俺たちの前に立ち、黒鋼色の双爪を構えた。
雄と雌がNanareeへ顔を向けた。
幼獣も親を追うように向きを変える。
三頭の視線がたった一人へ集まった。
Nanareeが幼獣へ一歩踏み込む。
その瞬間、左右にいた雄と雌が同時に進路を変えた。
Nanareeは双爪を振らず、すぐに後ろへ跳んだ。
二頭は追ってこない。
幼獣との間へ戻り、再び左右へ分かれる。
「……今の」
Nanareeが小さく呟いた。
雄が正面から距離を測る。
雌は右の岩場へ走り、赤い草の中へ姿を消した。
幼獣は二頭の間で身を低くする。
Nanareeの視線が最後に幼獣で止まった。
三頭が別々の角度から地面を蹴った。
【デスペナルティについて】
CROのデスペナルティでは経験値を大きく失うだけでなく、装備品や所持アイテム、所持金の一部をその場にドロップしたり、ロストしたりすることがあります。
また、復活してからしばらくは能力が大きく低下する《衰弱》状態になります。
装備品や所持品のドロップ、ロストについては確率で発生するため、何も失わない場合もあります。ただし、経験値の減少と《衰弱》だけは必ず発生します。
装備品以外の所持アイテムは装備中の品よりもドロップやロストが発生しやすく設定されています。
装備品のドロップやロストを防ぎやすくする保護アイテムも存在しますが、非常に高価です。
上位の攻略組では所持しているプレイヤーも少なくありませんが、一般的なプレイヤーが常に用意できるような価格ではありません。
そのため、レベルが高くなるほど失う経験値は増え、高価な装備品や貴重なアイテムを所持するようになることも含め、死に戻りによるリスクは高くなっていきます。
これはPKによって死亡した場合でも発生します。
その代わり、PK行為には相応に重いデメリットがあります。
それについては作中で出てきたときに。




