第70話 親
雌に放されたリザードはそのまま斜面を横切って逃げ続けていた。
幼獣はリザードへ向かって駆ける。
その目は逃げる獲物だけを追っていた。
ロヴェルは瞬きすることさえ惜しむように、幼獣の動きを追っている。
俺も視線を外せなかった。
ただし、理由はロヴェルと少し違う。
《紅狼ヴァルグ》は一頭でもフルパーティで挑む相手だと聞いていた。
俺は実物を見るまでその意味をしっかりと理解できていなかった。
今、この谷にいる成獣は二頭。
先ほど見たように、二頭が互いの隙を埋めながら動くなら、二つか三つのパーティを集めて挑むような状況になるだろう。
俺とロヴェルの二人では戦いにすらならない。
少なくとも、まだ一次職の俺ではまともに攻撃を受ければ、それだけでHPがなくなるはずだ。
幼獣がリザードへ真っすぐ飛びかかった。
リザードは直前で向きを変え、牙の先から逃れる。
着地した幼獣は勢いを止めきれず、肩から岩へぶつかった。
鈍い音が谷へ響いた。
ロヴェルの体がわずかに強張る。
俺も息を止めた。
その音に反応し、雌が幼獣へ顔を向けている。
雄も水辺の外れに立ったまま、ゆっくりと耳と尾を動かした。
幼獣は少しよろめいたものの、すぐに頭を振ってリザードを追い直す。逃げるリザードが谷の入口へ向きを変えると、雌だけが一歩出て見ている。
その横を向いた雌の左耳は先端が小さく欠けていた。雄よりやや細く見える体がその進路へ入り、黒みの強い肩毛が動きに合わせて揺れている。
進路を塞がれたリザードは岩の方へ向きを変える。
幼獣は雌の動きを見た後、前脚を低く沈めた。
今度はリザードへ真っすぐ向かわず、その逃げる先へ斜めに近づいていく。
「今、見てから動き方を変えましたね」
「ああ。まだ親と同じようにはできていないが、何をしているのかをよく見ているね」
幼獣が二度目の跳躍をした。
さっきよりもリザードの横へ近づいたが、着地した足が石に乗る。
体が外側へ流れ、その隙にリザードが岩の間を抜けた。
それでも一度目のように岩へぶつかることはなかった。
幼獣は親の方へ戻ろうとはせず、リザードとの距離を測るように左右へ体を揺らしている。
前脚から先に飛び出していた最初とは違い、今度は後脚まで深く沈めた。
ロヴェルはその幼獣の足運びを追いながら、目を細める。そのまま録画を続け、動きが変わるたびにスクリーンショットも残していた。
「これを持ち帰ったらクランの連中も驚くだろうね。何人かはすぐに見に来たがるかもしれない」
声を弾ませかけたロヴェルはすぐに音量を抑えた。
幼獣から目を離さないまま、〈クランチャット〉へ何かを打ち込んでいる。
「今日の動きを残しておけば、次に見つけたときに比べられる」
「また見つけられるでしょうか」
「簡単ではないだろうね。でも、見つけられればもっと面白いことが分かるかもしれない」
そのとき、逃げていたリザードが方向を変え、俺たちの隠れる岩陰へ続く斜面を駆け上がってきた。
「まずい、こっちに来ます」
ロヴェルは片手をゆっくりと下へ向け、その場から動くなと合図する。
俺たちは風下にいる。
姿を隠し、音を立てなければ、成獣二頭には気づかれずに済むかもしれない。
隣にいるロヴェルの気配が、岩陰へ溶け込むように薄くなった。
リザードが斜面を駆け上がってきて、俺たちのすぐ前を通り抜けていった。
そのまま岩陰の先にある草むらへ飛び込む。
その姿を追うように、幼獣もこちらへ続く斜面を駆け上がってきた。
近づいてくるたび、地面を蹴る音が大きくなる。
体は成獣より二回りほど小さいはずなのに、近くに来ると視界を塞ぐほど大きく見えた。
幼獣は俺たちの数歩先で四肢を踏ん張り、赤い土を削りながら止まる。
――近い。
あと少しでも踏み込まれれば、鼻先が胸元へ届きそうなほどの距離だった。
俺は息を浅くし、指一本動かさなかった。
隣のロヴェルも、幼獣から視線を外さないまま静止している。
幼獣はリザードが飛び込んだ草むらを見つめていた。
鼻先が地面へ下がる。
赤褐色の地面を一度嗅ぎ、リザードが通った跡を辿るように岩陰へ向かってゆっくり進んでくる。
俺たちは風下にいる。
風に乗った匂いなら、幼獣の方へは流れないだろう。
ただ、岩陰へ入るまでに踏んだ地面から、俺たちの匂いまで消えたわけではなかった。
幼獣の鼻先が俺の靴跡の上で止まる。
一度。
もう一度。
短く鼻を鳴らした。
獲物を追っていた丸い目がわずかに細くなる。
耳が前へ倒れ、揺れていた尾が止まった。
斜面の下で親が周囲を警戒していたときと同じ姿勢だった。
幼獣の顔がゆっくりと持ち上がる。
視線が俺の足元から胸元へ上がった。
さらに上へ動く。
目が合った。
「――ザン君、下がるぞ!」
その瞬間、ロヴェルが叫んだ。
幼獣が短く吠え、前脚を曲げて体を低く沈める。
斜面の下、水辺の方から二つの唸り声が重なった。
それまで別々の方向を警戒していた雄と雌が、初めて揃って俺たちの方へ駆け上がってきていた。




