第69話 つがいの歩き方
二頭分の足跡は峡谷の中でも一段低くなった谷へ何度も戻っていた。
谷の中央には大きな赤茶色の岩が立っている。
その周囲には大小の岩が散らばり、岩の間を細い水が流れていた。
その先の水辺から斜面にかけては草地がまとまって広がっている。
足跡の多くは谷へ下りた後、大岩の周辺で重なっていた。
硬い地面へ入って消えているものも多く、ここから先は一頭分ずつ追うことができない。
「大岩の近くまで下りますか?」
「いや、近づく前に少し見てみようか」
俺たちは谷へ下りず、風下側にある斜面へ回った。
大岩と水辺を少し上から見渡せる場所を探し、斜面の途中にある岩陰へ身を隠す。
背後にはさらに上へ戻る細い道が一本だけ続いていた。
何かあれば、そこから退避する予定だった。
しばらく待っていると、谷の左手にある岩の間から石が転がった。
続いて低い足音が聞こえてくる。
赤茶色の大岩の向こうから一頭の《紅狼ヴァルグ》が姿を見せた。
赤黒い毛並みに覆われた大型の狼型MOBだ。
首から肩にかけて太い鬣が続き、四本の脚も岩を踏み砕きそうなほど太い。
かなり離れているため正確には分からないが、四足で立った状態でも頭は俺の頭より少し高い位置にありそうだった。
少し遅れて、右手の岩棚からもう一頭が下りてきた。別々の経路から戻ってきた二頭は大岩の手前で合流する。
二頭が並んだところで、後から来た個体の方がほんのわずかに小さく見えた。
「あれが《紅狼ヴァルグ》……」
実物を見るのは初めてだった。
一頭だけでも十分に大きい。
その二頭が並んで歩く姿には近づきたくないと思わせる迫力があった。
「二頭で少し大きさが違う気がします」
「ああ。前が雄で、後ろが雌かもしれないね」
ロヴェルは声を落として言う。
「見ただけで分かるんですか?」
「一頭ずつ見ただけなら私も区別できなかったと思う」
ロヴェルは二頭を見比べる。
「前の個体は鬣がわずかに多く、前脚も少し太い。後ろの個体は体格が少し小さく見えるが、後脚はわずかに長いようだ。個体差かもしれない。でも、つがいで行動していると考えれば、雄と雌である可能性はある」
前を歩く個体が一歩進むたび、前脚の下で赤い土が深く沈む。
後ろの個体は長く見える後脚で地面を蹴り出していた。
「じゃあ、ロヴェルさんが追っていた深い足跡が前の個体で、俺が追っていた浅い方が後ろの個体だったのかもしれませんね」
「ああ。その可能性が高いだろう」
ロヴェルは二頭から目を離さない。
「これまで確認されていた《紅狼ヴァルグ》はどれも一頭で行動していた。別々に遭遇していれば、少し体格の違う個体としか思わなかっただろうね」
まだ断定はできないが、ここからは前の個体を雄、後ろの個体を雌として見ることにした。
二頭は赤い岩の間を抜け、その中央を流れる細い水辺へ近づいた。
前を歩いていた個体が足を止めると、もう一頭はその横を通り過ぎ、少し高い岩へ上がる。
雄が水へ顔を下ろしている間、雌は谷の入口の方へ向いていた。
やがて雄が顔を上げると、今度は雄が岩へ上がり、雌が水辺へ下りる。
二頭が同時に水を飲むことはなかった。
「足跡で外側を歩く方が入れ替わっていたのと同じですね」
「ああ。そのとき周囲を見やすい方が警戒を引き受けているんだろう」
歩いているときも立ち止まった後も、二頭のどちらかが必ず周囲へ目を向けている。
片方が無防備になると、もう片方がその隙を埋めていた。
「あの二頭を同時に相手にするなら、これまでの一頭ずつと同じつもりでは危なそうですね」
「そうだね。これまでの討伐記録はどれも単独の個体を相手にしたものだ」
ロヴェルは警戒を交代する二頭を見つめる。
「片方へ攻撃を集中すれば、もう片方が側面へ回るかもしれない。互いの隙を埋めながら動くなら、単純に敵が一頭から二頭へ増えただけとは考えない方がいいだろうね」
足跡から想像していた動きが目の前でそのまま繰り返されていた。
外側を歩く個体が入れ替わっていたのも、ただ進路が変わったからではなかった。
それを見ていたロヴェルは小さく息を吐いた。
「イベントが始まってから、獣たちを含めてMOB全体が以前とは違う動きをしている。まさか性別による違いや、つがいでの行動まで作り込まれているとはね」
「MOBの生態について、より詳細なアップデートでもされたんでしょうか」
「……どうだろうね。ただ、CROがそういった作り込みに力をかけていることは間違いないだろう」
入れ替わりながら水を飲む二頭を見つめ、ロヴェルの口元がわずかに上がった。
「にしても、ここまでやるのか……」
驚いているのに声はどこか嬉しそうだった。
「こういう動きは戦って倒すだけだと気づけませんね」
「ああ。だからこの目で見ておきたかったんだ」
雌が水を飲み終えたとき、水辺の左にある大岩の隙間から小型のリザードが姿を現した。
《紅狼ヴァルグ》と比べれば、かなり小さなMOBだ。二頭から距離を取り、大きく回り込みながら水辺へ近づいていく。
雄は谷の入口を見たまま動かない。
代わりに雌の頭がゆっくりと下がった。
前を向き、揺れていた尾が止まる。
「狙ってるみたいですね」
リザードも雌の変化に気づいたらしく、反対側へ体を向けた。
その瞬間、雌が地面を蹴った。
リザードが走り出すより早く追いつき、胴体を横から咥え上げる。
脚と尾が激しく暴れ、牙が食い込むたびに小さなダメージ表示が浮かんだ。
それでもリザードは光になって消えない。
「倒してないんですか?」
「《咥え込み》だね。《紅狼ヴァルグ》が使う攻撃の一つだよ」
雌は暴れるリザードを咥えたまま、水辺からこちら側の斜面へ向かった。
俺たちが隠れる岩陰より下には赤い草が深く生えた一帯がある。
「もしかしてプレイヤーも……ああなるんですか?」
「捕まると口の中で拘束されたまま運ばれる。崖まで連れていかれて落とされたという報告もあるよ」
「え、咥えられたまま……?」
「HPが尽きて死に戻るまではね。〈感覚制限〉を強くかけていても、何もできないまま運ばれるのは相当怖いらしい」
雌の口の中で暴れるリザードを見る。
「……絶対に捕まりたくないですね」
雌は斜面の草地の前で足を止め、咥えていたリザードを地面へ放した。
解放されたリザードは一瞬動きを止める。
雌が前脚を踏み出すと、弾かれたように斜面を横切って走り出した。
草地の中から短い鳴き声が返る。
隣でロヴェルの肩がわずかに跳ねた。
「今のは……?」
草地の間から影が飛び出した。
一瞬、別の魔物かと思った。
でも、赤黒い毛並みや太い四本の脚はさっき初めて見た二頭の《紅狼ヴァルグ》によく似ている。
違うのは体が二回りほど小さく、首回りの鬣もまだ短いことだった。
「……《紅狼ヴァルグ》の、子ども?」
思わず声が漏れる。
二頭の成獣と並ぶと幼く見えるが、それでも遠目に分かるほどには大きかった。
隣でロヴェルの息を呑む音がした。
岩陰から身を乗り出しかけ、すぐに体を戻す。
それでも視線だけは飛び出してきた幼獣から離れなかった。
「つがいだけでも初めてだったのに……幼獣までいるのか」
抑えようとしているのに口元が少しずつ緩んでいく。
「これは……想像していなかったよ」




