第59話 届いた歌
部屋から音が消えた後も、誰もすぐには動かなかった。
アガーテは膝の上の楽器に手を置いたまま呟くように言った。
「ありがとう……やっと聞けたよ」
しばらくそのまま余韻を確かめるように黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。
「一度だけ、北へ向かったことがあった。でも、確かめるのが怖くなって途中で引き返したんだよ……」
「……そうだったんですね」
「ああ。返事がどこかで途絶えていたのか、それともあの人が返さなかったのか。分からないままの方がいいと思って、それからずっと逃げちまってたんだね……」
しばらくして、俺たちへ顔を上げた。
「あたしができなかった続きを確かめてもらった……。すまなかったねえ」
そこでアガーテは窓の外へ目を向けた。
「……返事が届かなかったからね。その次の歌は作れなかった」
届いた返事へまた新しい歌を返す。
二人はそうして歌を続けるつもりだったのだろう。
アガーテは大きく息を吸った。
「今さら歌を返しても届かないだろうね。ただ……あの人からの返事をお前さんたちが届けてくれたからね」
アガーテが俺たちを見た。
「まだ続きを作ってみようか」
「……はい。ぜひ」
リヴィア自身の声で返された短い言葉だった。
アガーテは穏やかに笑うと、弦を一度だけ鳴らした。
「贅沢な話さ。何十年分もの言葉の中から、最初の一つを選ばないといけないなんてねえ」
その直後、リヴィアの前に淡い光が浮かんだ。
リヴィアが表示を俺にも共有する。
―――――
クエスト《まだ歌われない詩》が更新されました。
《返し歌》を本来の受取人へ届けました。
《世界樹の歌碑》に触れてください。
―――――
「世界樹の歌碑のところに戻るみたいです」
「このクエストが始まった場所ですね」
リヴィアは表示を閉じると、アガーテへ向き直って深く頭を下げた。
「アガーテさん、いろいろとありがとうございました」
「またおいで。次に会うときまでには少しくらい歌ができているかもしれないよ」
俺たちはもう一度礼を伝えて《旅鳥の宿》を出ると、外はいつの間にか暗くなっていた。
木々の間から落ちる月明かりが地面の上で静かに揺れている。
「返し歌、ちゃんと届けられましたね」
「はい。ここまで一緒に探してくれて、本当にありがとうございました」
返事はチャット欄ではなく、すぐ隣から聞こえた。
歌がすごく上手かった。
透き通った綺麗な声だった。
でも、それを今伝えるのは少し違う気がした。
「あの、リヴィアさん。俺は歌とか音楽のことは詳しくないんですけど……あの場で聞けて本当によかったです」
俺は少しだけ言葉を探した。
「だから……歌ってくれてありがとうございました」
リヴィアの足が止まった。
「……どうして、ザンさんがお礼を言うんですか……?」
「えっと、自分でもうまく説明できないんですけど……。ただ、あのときそう思ったので、伝えておきたかったというか……」
リヴィアは何も言わなかった。
目を伏せ、胸元で手を握っている。
一瞬、そのまま何も言わなくなるのかと思った。
でも、リヴィアは小さく息を吸った。
「いえ、こちらこそ……ありがとうございます」
返ってきたのはまだ聞き慣れないリヴィアの声だったが、今はもう震えていなかった。
◇◆◇◆◇
りあは今のザンの言葉を思い返していた。
――あの場で聞けて本当によかったです。
歌が上手いとか、そういう褒め言葉ではない。
ただ、あの場で聞けたことを喜んでくれた。
やっぱりこの人はこういう人なのだ。
そう思うと、りあはなんだか少し嬉しかった。
この《旅鳥の宿》へ来たときには気づかなかったが、道沿いには小さな白い花が一面に咲いていた。
月明かりを受けた花の傍を、二人でゆっくりと歩いた。
「月に照らされると、昼間とはまた違う綺麗さがありますね」
「……はい」
りあは隣にいるザンの横顔を見る。
「……どうかしましたか?」
視線に気づいたザンがこちらを向いた。
「い、いえ……」
りあは前へ目を戻した。
「……何でもありません」
返した声はほんの少しだけ小さくなった。
白い花を揺らす風の中に、二人分の足音が静かに重なっていた。




