第58話 返し歌
『アガーテさん、返し歌を見つけました』
その言葉に表情がわずかに揺れた。
「……本当にあったのかい」
リヴィアはこれまでに分かったことを説明した。
男の子が完成させた《返し歌》は南へ向かう吟遊詩人へ託されたが、次の運び手へ渡されずに《橋守の宿》に残されてしまった。
『返し歌に出てくる三つ目の鐘と笛の木を、南の宿場町カレドで見つけました』
俯いていたアガーテが顔を上げた。
「カレドの三つ目の鐘と笛の木……」
俺とリヴィアは顔を見合わせた。
「あの木は……風が吹くたびに笛みたいな音がしたんだよ」
そう語り始めた口調は穏やかなものだった。
『歌を送った女の子はアガーテさんだったんですね』
しばらく黙っていたアガーテはやがて長く息を吐いた。
「……ああ。あたしだ」
『どうして最初に教えてくださらなかったんですか?』
「ずいぶん昔に自分が送った歌の返事を探してほしいなんて、今さら恥ずかしくて言い出せなかっただけさ……」
アガーテはリヴィアの方へゆっくりと顔を上げた。
「それに……本当に歌を返してくれていたのか、今日までは分からなかったんだよ。もし返事がなかったらと思うと、怖かったのかもしれない」
「でも返し歌はちゃんとありました」
俺の言葉にアガーテは静かに笑った。
「……ああ。ちゃんと返してくれていたんだね。二人とも、見つけてくれてありがとう」
アガーテは大きく息を吸ってからゆっくりと吐いた。
「ずっと歌ってはいないが……忘れたことはない。せっかくだ。あたしがあの人へ送った歌をお前さんたちにも聞いてもらおうかね」
俺たちはアガーテに招かれ、宿の中へ入った。
アガーテはいつもの椅子へ座り、先ほど手入れしていた古い弦楽器を構えた。
「もう若い頃のようには歌えないがね」
弦が弾かれ、柔らかな音が室内に広がっていく。
何度か楽器の音程を確かめた後、アガーテはゆっくりと歌い始めた。
声は少し揺れていたが、途中で止まることはなかった。
歌われていたのは遠く離れた相手へ問いかける最初の歌だった。
アガーテはその歌を最後まで歌い切った。
弦の音の余韻が消えても、その場の誰も次の音を出さなかった。
◇◆◇◆◇
その空白が生まれた瞬間、リヴィア――澄野りあは気が付いた。
アガーテが遠く離れた男の子へ送った《最初の歌》は終わった。
次に続くのは、自分たちが見つけてきた――男の子が作った《返し歌》だ。
復元した旋律はメモに残してあり、《橋守の宿》で見つけた譜面と歌詞も手元にある。
それを差し出せば、《返し歌》をアガーテへ渡すことはできるのだろう。
でも、アガーテは遠い昔に送った《最初の歌》を、自分の声と演奏で聞かせてくれた。
その問いかけに対して、ただ復元した《返し歌》を渡すだけでは足りない気がした。
りあは幼い頃から歌が大好きだった。
ピアノを習い、何度も演奏して歌ってきた。
だからこそ、今アガーテが声にした問いかけへ、自分の声で返したかった。
二年前、顔を出さずに歌と演奏を投稿していた頃、動画につくコメントが少しずつ変わっていった。
服装。
体つき。
ピアノやギターを弾く指。
歌や演奏とは関係のないところに触れる言葉が増えていった。
やがて録音を始めても、誰かに見られ、何かを言われるのではないかと思うだけで、手や声が震えるようになった。
それでも歌うことまで嫌いになったわけではなかった。
そんな自分を見かねた兄が、顔も姿も隠せるアバターを作ってくれた。
その姿なら歌とは関係のない部分を見られることはない。
録音なら聞いた相手の反応を目の前で見ることもない。
そのおかげで、また少しずつ歌を誰かへ届けられるようになった。
でも、CROは違う。
目の前に相手がいる。
声を出した瞬間から、どう受け取られたのかが分かってしまう。
震えても、間違えても、やり直すことはできない。
そう思ってしまうと、指先が小さく震え始めた。
顔を上げると、何も言わずに待っているザンが視界に入った。
このサブ職クエストはザンのものではない。
それなのに、この三日間ずっと見つけられなかったものを一緒に探し、ここまでついて来てくれた。
初めて世界樹の歌碑の前で会ったときからそうだった。
CROで声を使わず、チャットだけで話す自分を珍しがることも、理由を聞くこともなかった。
文字が浮かぶのを待ち、いつもと変わらず話しかけてくれた。
この人の前でなら。
今ここでなら、歌えるかもしれない。
りあは震える指でボイスチャットの設定を開いた。
オンへ切り替える直前で止まりかけた指を、ゆっくりと動かした。
小さく息を吸った音に、アガーテとザンがこちらを見た。
再び迷ってしまう前に、りあは《返し歌》の最初の音を出した。
声は自分でも分かるほど震えていた。
それでも一節を歌い終える頃には、歌の方が先へ進んでくれた。
北の町へ移っても、故郷を忘れていなかったこと。
北にはあなたが好きそうな赤い花が咲いていたこと。
いつか戻れたなら、三つ目の鐘が鳴る頃に笛の木の下で待つこと。
返し歌に導かれるように、膝の上で止まっていたアガーテの指が動いた。
一音ずつ探るように鳴らされた弦は、やがてりあの声を支える伴奏となっていった。
男の子からの返事はあった。
ただ、届くまでにとても長い年月がかかった。
カレドに笛の木はもうなく、三つあった鐘も一つしか残っていない。
歌を送った少女は年を取り、返し歌を作った男の子はもうここにはいない。
それでも、あの頃の二人が交わすはずだった歌が、今ようやくここで重なっていた。
アガーテの伴奏に支えられ、いつしか声の震えは消えていた。
澄んだ声は最後の節まで途切れることなく響き、りあは《返し歌》を歌い切った。
声が消えた後もアガーテの弦だけがかすかに響いていた。
その音は誰も通らなくなった道をもう一度辿り、50年以上隔てられていた二人の歌を最後まで繋いでいるように聞こえた。




