第15話 読めない歌碑
振り返ると、一人のエルフが立っていた。
明るい緑のローブを着たエルフの女性プレイヤーは、入口から少し入ったところで足を止めていた。
持っている細い杖の手元では、蒼色の小鳥の飾りが小さく揺れている。
彼女は俺の後ろにある《世界樹の歌碑》を見て、それから少し間を置いてこちらへ視線を向けた。
『読めましたか?』
目の前に浮かんだテキストチャットを、俺は一度だけ見返した。
CROでは近くにいる相手とはボイスチャットで話す人が多い。
ただ、テキストだけのプレイヤーも珍しいわけではない。声を出したくない人もいれば、出せない環境で遊んでいる人もいるからだ。
だから目の前の彼女が文字だけで話しかけてきたこと自体は不自然ではなかった。
頭上の名前表示は――リヴィア。
見えるのはそれだけ。
フレンドやパーティメンバーではない限り、プレイヤーのレベルや職業までは表示されない。
「いえ。読めませんでした」
リヴィアは《世界樹の歌碑》へ視線を戻した。
少し間が空いてから、文字が浮かぶ。
『私もです』
「あなたもですか?」
『はい、読めません』
短い返事だった。
リヴィアは短く頷き、《世界樹の歌碑》にそっと手を触れた。
碑の表面を淡い光が走る。
そのとき、碑文のような線と点が一瞬だけ浮かび上がった。
文字というより記号のような形。
でも、それ以上の反応はなかった。
リヴィアが手を離した後、俺も触れてみる。
―――――
《世界樹の歌碑》
世界樹の内に残された古い歌碑。
現在の条件では詳しく読み取れません。
―――――
この歌碑自体の簡易表示は出る。
でも、相変わらず静かなままだった。
そこに細く線が刻まれているだけ。
「俺には、現在の条件では詳しく読み取れません――と出ます」
『……光りませんでしたね』
「光?」
『私のときは少しだけ碑の線が光るみたいなので』
リヴィアはもう一度歌碑を見た。
彼女自身も今気づいたような間があった。
『それと表示文も少し違うみたいです』
「文が違いますか?」
『私の方には、かすかな旋律が聞こえます、と出ています』
――旋律。
俺の表示にはそんな言葉はなかった。
その単語だけで、目の前の歌碑が少し違って見えた。
さっきまで文字か模様か分からなかった線と点が、なんだか譜面のように見えてくる。CROの古いエルフ語みたいなものかと思っていたが、違うのかもしれない。
リヴィアの文字は少し遅れて続いた。
『その下に、現在の条件では歌の続きを読み取れません、と出ています』
俺は歌碑を見直した。
リヴィアと俺は同じ歌碑に触れているが、俺と同じ表示ではない。
世界が返す言葉が違っている。
リヴィアにはかすかに旋律が聞こえ、歌というワードが出ている。
俺にはそれが返ってきていない。
種族なのか。職業なのか。
それとも、もっと別の条件なのか。
「……CROってすごいですよね」
俺は思わず声が出てしまっていた。
リヴィアがこちらを見る。
「⋯⋯同じ場所なのに、一人ひとり返ってくるものが違う」
条件で反応が変わる。
当たり前のシステムといったらそれまでだ。
でも、今はそのことが急に胸の奥まで届いた。
俺はインベントリにある《灰冠戦役・第七補給隊名簿》を思い出す。
未開示記録。
そして、第二中継点。
―――――
必要な条件を満たしていません。
―――――
同じ文言ではないが近い。
そこにあり、触れることはできる。
でも、今はまだその先が読めない。
世界樹の歌碑はリヴィアには少しだけ続きを見せている。
俺にはまだそこに何があるのかも見せてくれない。
これは《第七補給隊名簿》も同じかもしれない。
今は読めない。
今は開かない。
でも、条件が変われば返ってくる言葉も変わるかもしれない。
「これ、かなり大事なのかもしれません」
自分でも少し声が弾んだのが分かった。
リヴィアのテキストはすぐには返ってこなかった。
世界樹の奥で、葉擦れにも弦の響きにも似た細い音が流れている。
その静かな音がしばらくこの空間を満たしていた。
それから少しして、文字が浮かんだ。
『そんなにですか?』
「かなりです」
また少し間が空いた。
『そうなんですね』
こんなことで、こんなに嬉しそうにする人がいる。
そう思われたのかもしれない。
でも、その沈黙は嫌なものではなかった。
返ってきたのはただのテキストだった。
それでも、世界樹の広間に流れる音と同じくらい柔らかく感じた。
俺はもう一度、目の前の歌碑を見る。
白い木と石の間のような碑。
そこに刻まれた細い線と点。
さっきまで、それはただの条件不足の通告だった。
でも、今は少し違って見える。
同じものに触れても、返ってくる言葉が違う。
リヴィアには、そこに歌の続きがあると返ってきた。
俺にはまだ、それすら見えていない。
少し不思議で、少し羨ましかった。
俺の名簿もそうなのだろうか。
誰かが残した道。
誰かが運んだ荷。
誰かが覚えていた名前。
その続きが、まだ見えていないだけなのだとしたら。
世界樹の歌碑は俺には何も答えてくれなかった。
それは今見えないだけで、存在しないわけではない。
そう思えただけで、読めない歌碑の前に立っている時間はここへ来た時とは違うものになっていた。




