第5話 雨と夢
ザァザァと滝のように降る水音に、目を覚ました。
竜の塔での生活が始まって、四日目の朝。今日は雨が降っていた。
湿度をたっぷり含んだ重たい空気の中で、私は深いため息をひとつ。
それは、未だに「何をすればいいのか」わからず、困っているからだった。
とりあえず、着替えて身支度を整える。
それから、しばらくしてメイドさんが現れた。合羽のような上着を羽織り、朝食を運んできてくれた。
私の専属メイドは、あの日ドレスを着せてくれた美人さん――ロレッタさんというらしい。彼女は筆頭メイド候補らしく、かなり多忙なようだ。 「極力、顔は出すようにしますけれど……」と、申し訳なさそうに言われたときは、無理はさせられないと思った。
私が朝食を食べている間に水回りの掃除と洗濯物を回収して、食後には床掃除。こんな流れなので、ほとんど会話をする時間もない。
私が暮らすログハウスは、広めの1LDK。寝室とリビングのほか、洗面所やお風呂も備わっていて、簡易的なキッチンがあり、お茶を淹れる程度なら問題なくできる。
その中で、驚いたのは、風呂やトイレの仕組みが、元の世界とほとんど変わらないことだった。ここでは「魔石」と呼ばれる石が動力源らしく、魔力を込めて術式を刻めば、半永久的に使用できるらしい。そのおかげで、水温の調節も可能だし、下水に流すこともできる。
(今日も、ご飯が美味しい……)
基本は洋食スタイルで、パンやスープ、肉料理が中心のメニュー。
味が薄く、ただ煮たり焼いたりしただけの“中世風ごはん”を想像していたけれど、パンはふんわり柔らかく、スープもしっかり出汁が取られていて、初日は驚いてしまった。 王族と変わらない待遇、と聞いてはいたけれど、正直ここまでとは思わなかった。
朝食を終えると、ロレッタさんの掃除の邪魔にならないよう、私は薄明竜のもとへ向かうのが日課になっていた。
部屋と塔は廊下でつながっていて、わざわざ外を回らずに行き来できる造りになっている。
「おはよう、薄明竜」
雨のせいで、塔の中はいつもよりひんやりと肌寒い。
私の声に、竜はゆっくりと顔を上げてくれたけれど──すぐに目を閉じ、また眠ってしまった。
昨日と変わらぬ反応に苦笑しつつ、私は壁際の椅子を引き寄せる。
ロレッタさんが気を利かせて置いていってくれたショールを肩に羽織り、昨日から読み始めた『ドルガスア国史』を開いた。
基本的に、竜はほとんど食事を取らない。
週に二度ほど、牛の丸焼きを二頭分投げ入れるだけで十分らしい。あの巨体を維持するには、相当なエネルギーが必要だと思っていたけれど、想像よりずっと“低燃費”な生き物だ。確かに、常に眠っているのなら、それほど消費しないのかもしれない。
だから、声をかけるのも少し気が引けてしまう。
なので私は、最低限の挨拶と、近くで読書することを心がけることにした。
ありがたいことに、この国の言葉も文字も理解できるようで、『ドルガスア国史』も問題なく読めている。
これが聖女の力によるものなのか、別の理由があるのかはわからないけれど、少なくとも本を読めるのは、心の支えになっていた。
塔の書棚には、歴代の聖女のために用意された本がぎっしりと詰まっていた。
歴史書から恋愛小説、さらには魔術の入門書まで──この世界の知識が、たくさん眠っていた。
(……元の世界にいたら、今ごろ何をしていただろう)
ちょうど一限目か、二限目の授業が始まっている時間だろうか。
普段なら、ノートパソコンやスマホを片手に、講義を受けたり情報を集めたりしていたはず。
もう4日も、音楽番組も、公式WEBチャンネルも見ていない。そんなの、人生で初めてのことだ。
(SNSの更新だって、きっと山ほど溜まってる)
毎日、当たり前のように届いていた新しい情報。それに対して、リアルの友達よりも、ネットで顔も知らない誰かと盛り上がる時間が好きだった。
週末には必ずお母さんに電話して、推しが出ているドラマや映画の話で盛り上がる。それが、何よりの楽しみだった。
(そういえば、お母さんに連絡して、次のライブの予定を相談するつもりだったな)
母は、外資系企業で幹部候補としてバリバリ働くキャリアウーマン。平日は分刻みのスケジュールをこなして、土日はしっかり休むタイプ。
一方で父は、その母を支える主夫で、のんびり屋な人。まるで正反対だけれど、不思議と相性が良くて、私の記憶にある限り、喧嘩をしたところなんて一度も見たことがない。
(なんだか……懐かしいな)
この世界に来て、まだ一週間も経っていないのに。
もうずっと遠くに来てしまったような気がする。
雨音だけが、静かに塔の中に響いていた。
ショールのぬくもりに包まれて、私はいつの間にか、まどろみに落ちていた。
*
リビングのドアを開けると、お父さんが柔らかな声で「おかえり」とキッチンから顔を出して、お母さんはDVDを見ながらサイリウムを振っている。
我が家のごく当たり前の光景だった。
――この前のライブのDVD?
――そうよ、一緒に遠征に行ったヤツ。晴歌も楽しかったでしょう?
――うん、あのときのMC、すっごく笑っちゃったよね
お母さんが、週末休みをしっかりとる理由は、アイドルのライブに行くためだった。
事務所全体が推しで、月に一度はライブに通い、日帰り遠征も辞さないパワフルな母親だ。私自身も小学生の半ばを過ぎたころから、少しずつライブに誘われ、高校生になる頃には、一緒に遠征にも出かけるようになっていた。
そんな母親と娘に対して、温かく見守ってくれるお父さんは、優しすぎるくらいだった。
子どもの頃「嫌じゃないの?」と聞いたら、「ママが楽しんでる顔が一番好きなんだ」と笑っていたっけ。
「――でも、穏やかな顔を引き出すのは僕の方が上手かも」
あのときは「そうだね」と頷いてしまったけれど、盛大な惚気だったなと後になって気づいた。
――そろそろ、ご飯ができるよ
――はーい。ね、今日は晴歌の好きなメニューだって
嬉しそうにお母さんが笑う。
食卓は、いつも話題が絶えなかった。
――なのに、どうしてだろう。こんなにも、遠く感じる。
まぶたの裏で、誰かの声がフェードアウトしていく。
まるでテレビの音量を絞るように、日常が静かに遠ざかって──
*
目を覚ますと、薄明竜の塔だった。
ショールの温もりはまだ残っているのに、心にぽっかりと穴が空いたような気がした。
先ほどまで確かに見ていた夢は、現実よりも現実らしくて、やさしかった。
でも、私はもうあそこには帰れないのだと、あらためて思い知らされる。
(……帰れない。けれど、ここで何もしないわけにはいかない)
ぼんやりと天井を見つめていた視線を、ゆっくりと竜の方へ向ける。
その巨体は微動だにせず、静かな寝息を立てている。
(この世界で、自分にできることって……何だろう?)
その問いに、焦る気持ちだけが膨らんで、心の中に薄く冷たい霧が立ちこめていく。
考えようとしても、頭の中は真っ白で、何も浮かばない自分が情けなく思えた。
でも、まだ4日目だし、雨だから憂鬱になっているだけだ。そう、自分に言い聞かせて、開いたページに視線を落とす。
このときから、ちゃんと歯車は動き出していたらしい。
見据える視線に気づかず、私は黙々と読書を続けていた。