第4話 月明かり
お風呂を済ませたあと、これから眠ろうかと思ったときだった。
扉の向こうにいる、畏怖すべき存在の呼吸が聞こえたような気がした。
今日はずっと話していたせいで、夕食のときも何となく気になって仕方がなかった。
塔のなかは、寒くないのか、お腹は減っていたりしないか――寂しくない、のか。
薄明竜にしてみれば、どれも取るに足らないことかもしれないけれど、自分だったらきっと耐えきれないと思った。
ずっと檻に閉じこめられて、それこそ何百年もあの中で過ごしている。
――それなのに、今日は傍にきてくれた。
人間なんて心底嫌いなのかもしれない。けれど、気まぐれを起こして、私のところに来てくれた。
会話とは言い難い、一方的なオタク話。思い返すだけでいたたまれなくなるけれど、それでもあの竜は横にいた。
反応するわけでもなく、聞いているともいえないけれど、この数日間は無駄じゃないと思えた。
そして『そばにいていい』と、あの気高い竜に許されたのか。もう一度、確かめに行きたい。
突き動かされるように、塔へと続く扉に手をかけ、ゆっくりとドアノブを回す。
雨はいつの間にか上がって、月明かりが塔の中を照らしていた。
「――――ッ!」
その美しさに息をのむ。
世界中、どこを探しても、こんなに綺麗で眩しい生き物は、他にいない気がした。
スポットライト代わりに降り注ぐ光が、純白に輝くベールを薄明竜にまとわせる。鱗一つ一つが、キラキラと瞬く様は、まるで夜空の星を集めたスパンコールみたいだ。
それでいて、大きな羽の皮膜部分は、丁寧になめした革のように艶やかな光沢を放つ。その滑らかさと鱗の煌めきが、見事な対比をなしていた。
獰猛さの象徴でもある角や爪も、月光の下では神秘を宿している。
あまりにも神々しい存在に魅了されて、一歩足を踏み入れる。すると、竜が弾かれたように巨体を大きく揺らして、私の方を見た。
「こ、こんばんは。薄明竜」
寝ていたところに急に私が来たらびっくりするか。
心臓がドキドキして、耳のなかまで鼓動が響く。驚かせたのなら、申し訳ないと思いつつも、一、二歩と竜の元へ歩み寄る。
「その、今日のお礼が言いたくて」
格子の前にたどり着いて、上を見上げる。
竜も私だとわかったからなのか、ゆっくりと近寄ってきてくれた。そして、長い首を少しだけ下げて私を視界にいれる。
その青い瞳には私が映っていて、警戒しないでいい人間として扱ってくれているようだ。
「あの……今日はごめんね、でも、ありがとう。話を聞いてくれて、嬉しかった」
自分にできる、とびっきりの笑顔で薄明竜にお礼を言う。
今の自分に返せるものなんて何もなくて、出来ることといったら、これぐらいだった。
竜は無言のまま、じっと私を見下ろす。
不思議な感覚だった。格子がなかったら、本当に一飲みで食べられてしまいそうなのに、穏やかな呼吸音だけが聞こえてくる。
分厚く硬い鱗に覆われた筋肉質の身体から感じる圧も、怖いはずなのに逃げることができない。
それこそが、竜というものなのかもしれない。
だから、彼の前では、“竜の聖女”という責務なんて、ひどく些細なことに思えた。
本当に私は無力だ。
それでも、私にだって出来ることがあると、呼ばれた意味を見出したかった。
見上げると、大きな青い瞳が波紋を描く。
まるで、すべてを受け止めてくれるような深い、深い、蒼。
こんなにも美しい存在が傍にいてくれる――今はそれだけで、胸が満たされていく。
でも、どうしてか、胸の奥がきしむ。
満たされているはずなのに、どこか足りない。
鼻の奥がツンとする。抑えきれない何かがこみ上げて、肩が震えた。
「――――っ、ふっ、うっ…………うっ」
気が付けば、涙があとからあとから溢れてきた。
泣くつもりなんてなかった。
ただ、距離を確かめたかっただけなのに、どうして私はこんなにも弱いのか。こんな、みっともない姿を見ても、竜は脆弱な人間としか思わないはずだ。
泣いたって、意味なんてないのに、止め方がわからない。
――カシャン。
何か金属が外れ落ちたような音がした。
私の涙と引き換えに、何かが“壊れた”ようにも聞こえた。
その音は、竜の塔に響きわたり、反響は次第に小さくなって消える。
そして暗い塔の中、淡い光の陽炎が立ち上った。
月光が揺れて、白銀の鱗がほどけるように消えていく。
その空気の揺らぎが、ふわりと頬をかすめる。
いったい何が、と思って、目をこすってみれば、ぼやけた視界いっぱいにあったはずの竜の姿が消えていた。
その代わり同じ場所には、別の何かが立っていた。
艶やかな白銀色の長髪に紺碧色の瞳の青年。
人間離れした美貌は、紛れもなく竜のように強くしなやかだ。
吸い込まれそうになるくらい美しいけれど、同時に背筋が凍るほどに『人ではない』気配が漂っている。
人の形を模っただけの姿。そんな風に感じてしまうくらい、魔性が秘められていた。
――息ができない。
「……これが……寂しい、というものか」
紡がれた言葉は、不慣れで、どこか硬い。
喉を震わせて音を出しているというより、空気を直接振動させているような響きだ。
「泣くな」
慰めるような優しい声音ではなく、冷たく、凍えるような命令だった。
格子の隙間から腕が伸び、大きな手がそっと開かれた。
その動きに、ほんの一瞬だけ恐怖を覚える。人の姿をしていても、これは竜の手だ。私なんかすぐに殺せるかもしれない。
けれど、戸惑うように一度ためらい、やがて太く節くれ立った指先が、私の頬をかすめた。
熱い。
まるでマッチの火がつくように、初めて触れられた感覚が、身体に熱を灯す。
初めてこの世界で誰かに触れられた。
怖いはずなのに、ただただ温かい。
呆然とする私に対して、彼は肩をすくめた。なぜ泣いていたのかわからない、といった様子だ。
それがかえって、涙の止め方をわからなくさせた。困らせたくないのに、今なら泣いていいのかもしれないと、彼の存在が肯定してくれるようだった。
「うぅっ、あぁ……」
涙が溢れて止まらない。
ぐずぐずと鼻をすすって、やがて耐えきれなくなってしゃがみこむ。
すると、目の前の彼は、ぎこちなく頭の上に手を置く。
それはまるでガラス細工に触れるように――けれど、細心の注意を払いながら頭を柔らかく包んでくれた。
「……ここにいる」
その言葉が、手の感触が、冷えた心を溶かしていく。
頬には、まだその温度だけが残っていた。
貴方のために、この世界に呼ばれた。
ようやくその意味が、わかってきたのかもしれない。
2026.5
大幅修正のためいただいた感想とズレがあります。
ご了承ください。




