第3話 薄明竜
禍々しい檻の中に対をなす、圧倒的な存在――薄明竜。
今その竜は、小雨の音を子守歌代わりにして、寝息を立てていた。
恐竜のような巨大な身体は、化石とは比べものにならないほど生々しい。大顎から届く湿った熱気に、血肉を喰らってきた過去が垣間見えるようだった。鋭く尖った爪が律動する度に、肌を裂くような錯覚が走り、鳥肌が立つ。
けれど、夜明けと夕暮れの刹那にきらめく白銀の輝きが、その恐怖を凌駕する。
薄暗い塔の中でも、銀箔の鱗が微かな灯に反射して、呼吸とともに幾重にも変化していく。それは、彩度の異なる万華鏡をゆっくりと回しているようだった。
最高の職人が無駄なく、力強く、そして繊細に仕上げた姿は、邪竜だったとは思えないくらい優美な体躯をしている。爪も牙も、まるで白磁の柱のようだ。その存在自体が神秘的で引き込まれてしまう。
そう、薄明竜は、怖いくらいに綺麗だった。
それこそステージの上のアイドルよりも、何十倍も美しく、そこにいるだけで他者を圧倒する。
――この竜のために呼ばれた。
絶世の竜の隣にいる特権が私にはある。
プラチナチケット以上の価値があると思わせるくらい、魅了されているのだ。
だから、傍にいることにした。
とはいえ、そんな絶世の竜も、日常はひたすら寝ている。食事も週に二度ほど、牛を丸ごと二頭投げ入れるだけで十分らしい。
あの巨体を維持するには相当なエネルギーが必要だと思っていたけれど、想像よりずっと“低燃費”な生き物だ。
それでも、私が訪ねると目を開けて確認だけはとってくれる。そのささやかな仕草だけでも嬉しかった。
そんな竜の傍で、私はセルフプロデュース計画として、まず環境を理解するところから始めている。
言葉と文字の理解。
これが、最初に与えられた聖女の“力”なのではないか、と私は考えている。
よくよく考えてみれば、異世界に召喚されたからといって言語が理解できるのは、少し不思議だ。
この力を応用して、竜を制御する――すなわち、コミュニケーションなんじゃないか、という推測を立てていた。
だから、先代聖女のことも込みで、歴史書や魔術の本を片っ端から読み漁っているのだ。何がきっかけになるかわからないから。
膨れ上がる不安をかき消すように、私は情報を入れ続ける。
雨が降っているせいで、時間の感覚がわからず、竜の塔に隣接した自室に一度、戻ることにした。
部屋に戻っても、誰もいない。当たり前のガランとした光景は、肌を刺すように冷たく、数日たっても慣れないでいる。
「……来てたんだ」
机の上には置き手紙とバスケットが一つだけあった。
それは、私の専属メイドであるロレッタさんからだった。城でも忙しい立場にありながら、三食届けてくれる。けれど、あまり言葉を交わしていない。それでも、掃除や洗濯はキチンとこなしてくれるし、紙を開けば“挨拶せずに城に戻って申し訳ない”と書いてあった。
その内容だけでも、冷えていた身体にじんわりと熱が染み入る。
「あ、たまごサンドだ」
見慣れた黄色い具材に少しだけ心が踊ったのは、ライブの遠征先でよく食べていたからだ。
たまごの優しい明るさは、何となく雨の憂鬱さを払拭するようで、気分が少しだけ晴れるよう。
自然とバスケットを持って竜のところへ足を運んでいた。
「薄明竜、お昼ここで食べていい?」
きっとイエスもノーも言わないだろうな、と見てみれば案の定、目は伏せられたままだった。
そんな姿に苦笑しつつ、先ほどの椅子に座って、バスケットを開く。
「いただきます」
一口かじると、パンの柔らかさと卵の柔らかな風味が広がる。
素朴だけど人の肌を感じて、静かな塔の中でも誰かの気配が伝わってきた。
ざぁざぁと雨は降り続く。
大学にいた頃は、人の声の方が騒がしかった。
一人でモソモソと食べているのも、妙につまらなく感じて、竜を見る。
丸まって眠る姿は、どこか大きな猫にも見えなくもない。猟奇的な爪も大木のような尻尾もキレイに畳まれていて、規則的な呼吸音だけが塔に響く。強大な存在なのに、爬虫類特有の無骨な可愛らしさはあるような気がした。
「薄明竜……あの、ええと……少し、話を聞いてくれる?」
眠りを妨げたら怒るのだろうか。
悩みながらも、チラリと竜を見てみれば、泰然自若で何も変わらない。
だったら、鳥の鳴き声も人間のおしゃべりも大して変わらないだろう。そんな見当をつけて、話し始めてみる。
「話す前に、改めて名乗るね。佐伯晴歌です。晴歌でいいよ。十九歳で……あとは、何を話せばいいかな」
少し考えたけれど、手元の紙に書き散らしたライブステージを語ることにした。歌って踊る彼らを見ると元気が出ること。大学では、そのための勉強をしてきたこと、趣味のことならいくらでも話せた。
「このたまごサンドも、お父さんが遠征のときによく作ってくれたんだ」
母の趣味で小さなころから連れて行ってもらっていたアイドルライブ。
それを優しく見守る父と、はしゃぐ母の笑い声は、私にとっての居場所だった。
眩しいステージをこれからもずっと一緒に見に行けると思っていた。
「そっか。もう……会えないんだった」
ギュッと胸が締めつけられる。
言葉にすると、さらに重みを痛感する。
生きていると伝えることも、同じ空の下にいると思うこともできない。
存在している世界が異なるのだから、全てが違うのだ。
口にしたはずのたまごサンドが、違う食べ物のように思えてきた。
けれど、吐き出すことなんてできずに、無理やり飲み込む。喉につかえて、呼吸が苦しい。
「っ――――」
声にならない嗚咽を押し殺すように、口元を手で覆う。
なのに、肩が震え、目が滲む。鼻をすする音が、塔の静けさの中にひときわ響く。
一方的に話しかけて、勝手に泣き出すなんて恥ずかしい。
楽しい話をしているはずだった。音楽のこと、彼らのこと、伝える魅力はたくさんある。
なのに、こみ上げてくるのは言葉ではなく、涙だ。
「ご、ごめ、はくめいりゅ、ちょっと、席、はず――」
ボロボロと泣き出してみっともない姿をさらす前に――と目頭が熱くなった気配に慌てて席を立つ。
そのときだった。
大樹がざわめくように、羽を広げて檻を覆った。
そして、首がゆっくりと動く。
青い瞳が、じっと私を見つめていた。
やがて、その巨体を揺り動かしながら立ち上がると、大地を踏み鳴らしながら、こちらに近づいてきた。
何か逆鱗に触れるようなことでもしたのだろうか。
射貫くような視線が、私の足を縫い留める。
それは人の同情とは違う。
嵐の前の静けさのような、濃縮された『密度』がそこにはあった。
私は立ち上がったまま、やってくる姿を見届ける。
竜は格子のそばまで来ると、目の前で巨大な身体を横たえた。その風圧だけで吹き飛びそうになるのに、なぜか命の危機を感じさせるような気配がない。
「泣くな」とか「可哀想に」とも言わない。ただ、巨大な熱量を持つ生命体が、自分の隣に『在る』ことを許してくれている。
さっきまであんなに冷たかった塔の空気が、少し違う温度に感じられた。まるで、ちっぽけな私の孤独を塗りつぶしていくようだった。
「……って、えっ、ええぇ?」
素っ頓狂な声を上げる私に、竜はチラリと目を向けたものの、やがて顔を首の中にうずめていく。
そのまま再び眠るような体勢になる……かと思いきや、小さく首を持ち上げて、こちらを見た。
どういうことなんだろう。
こみ上げていた涙は引っ込んでしまい、竜の突然の行動に頭が追いつかない。
けれど、竜が格子の近くまで来てくれたのは、初めて出会ったとき以来のことだった。
一歩、踏み出して近づいてみると、その大きさに改めて圧倒される。けれど、不思議と怖くはなかった。
「薄明竜、話……聞いてくれるの?」
その問いに、グルル……と喉を鳴らすような声を上げ、ゆっくりと顔を伏せる。
間近で見る青い瞳は深海のようで、長命種ゆえに奥深く、底までたどり着くのには途方もない時間がかかりそうだ。
それでも、今、この瞬間だけは、隣にいる。
――嬉しい。
竜がただ近くにいてくれるだけで、こんなにも心が満たされるなんて。
聖女とか、責任だとか、そんなことは考えなくてもいい。
私の話を否定することも、肯定することもなく、ただ聞いてくれそうな気配に自然と頬がゆるみ、楽しかった記憶が浮かんでくる。
母との遠征の話をしようか。それとも、ステージにするべきか。
話はさっきよりも熱がこもって、思わず前のめりになってしまう。
「私ってね、"事務所推し"っていうタイプなんだ。特定の誰かじゃなくて、事務所が作り上げてきた世界ごと好きになっちゃう感じ」
先輩から後輩へ受け継がれるステップや、新しい機材で表現が変わっていく瞬間。
グループによって全然色が違って、その成長を追いかけるのが楽しさ。
今回のライブコンセプトはなんだろう、どんな魅せ方をしてくれるんだろう。
それをライブ前はいつも想像して、ドキドキして、興奮していた。
自分でも、おかしいと思う。ついさっきまで泣いてたくせに、推し語りができると思うと力が湧いてくるなんて。
悲しみが消えたわけじゃない。それでも、アイドルはいつだって、どこだって、私を支えてくれるんだ。
それにオタクは、一晩も二晩も余裕で語れる。
微かに動いた竜の尻尾をみて、私は小さく微笑む。
それからロレッタさんが夕食を運んでくれるまで、私はずっと夢中になって、薄明竜に話しかけていた。
けれど、まだ手は冷たいままで、薄明竜との距離は空いたまま。
それを埋めたいと、ほんの少しだけ輝いたようにみえた青い目に思いが膨らんだ。
竜の纏う空気が、ほんの少しだけ違うと肌で感じる。
――まるで、私の声が届き始めたみたいに。




