第2話 目が覚めたら
異世界転生や転移の“定番”といえば、突然トラックに轢かれたり、女神さまの神託が降りたり、そんなものが主流らしい。
けれど、異世界への扉は、いつも劇的に開かれるとは限らない。
私の場合は、ただ道路を歩いていただけだった。
対向車のヘッドライトがまぶしくて、反射的に目を閉じた。
たったそれだけ。
瞬きをしたかと思った次の瞬間には、世界がぐらりと反転していた。
そして気がついた時には、冷たい石の上に寝転がっていたのだ。
「ん、えっ……な、なにこれ……?」
ゆっくりと上体を起こす。
手をついた床は、ツルリと滑らかな感触だった。
さっきまで歩いていたアスファルトとはまるで異なる、大理石のような冷たく硬い素材。
その床には、白いチョークで何かの文字が描かれている。
――見たこともない、奇妙な文字列。
それだけで胸がざわついた。
慌てて周囲を見渡すと、そこはまるで神殿のような空間だった。
重厚な赤い垂れ幕が柱にかけられ、空気はぴんと張り詰めている。
天井は高く、その中央には、青空を背に竜と女性が描かれた大きな天井画があった。
窓からこぼれる光がその絵を照らし、まるで早朝の公園のような澄んだ清涼感が漂っていた。
そして視線を下ろす。
私の周囲には、灰色のフードをかぶった集団がぐるりと取り囲んでいた。
「おお……」「成功したぞ……」
誰かがつぶやくたびに、ざわざわと小さな波紋のように空気が震えた。
その異様な光景に、思わず背筋が凍る。
身体がこわばるのを感じたその時――
カツン、と響く杖の音が場のざわめきを断ち切った。
人垣の中から、フードを下ろした老人がひとり、私の前に進み出る。
長い白髪と深い皺、そして手にはいかにも“魔法使い”といった趣きの杖。
そして、彼は高らかに宣言した。
「お待ちしておりました、竜の聖女様」
両手を広げて、いかにも歓迎していますというポーズを取られても、正直困る。
私の内心をよそに、おじいちゃんはさらに朗々と話を続けた。
「貴女様は、我らがドルガスア竜王国にて、未だ御しきれぬ薄明竜を鎮めるために、異界よりお呼びした“聖女”にございます。どうか、竜と共に、この王国をお守りくださいますよう……」
恭しく、頭を垂れる老魔術師。
まるでおとぎ話の一場面のような光景に、私はただ呆然とするだけだった。
*
「なるほど……」
運ばれてきたお茶を一口。
上品なティーカップに注がれた琥珀色の液体は、紅茶に似た優しい甘みがあり、心にじんわりと染みわたる。
私を最初に迎え入れてくれた、あの魔法使い然とした老人――アンブローズおじいちゃんの話を、頭の中で整理してみた。
このドルガスア竜王国は、薄明竜という竜に守られた国であること。
その竜を制御するために、“異世界からの聖女”の力が必要であるということだ。
その薄明竜とは、今から三百年ほど前。
強大な魔力を持ち、人や魔獣も問わず蹂躙し、時には国を滅ぼしてきた邪竜のことをさす。
その灼熱の吐息で、大森林を炎の海に変え、破壊の限りを尽くしてきた。
その薄明竜に立ち向かったのが、聖女マルタエル。
彼女は聖なる祈りで竜の心を鎮め、その罪を償わせるため、ドルガスアの地と契約を結ばせた。
それ以降、薄明竜はこの国の“守護竜”として、生きることになったのだという。
そして、竜との契約の維持と制御は、代々“竜の聖女”が担ってきた。
なぜ異世界から聖女を呼ぶのか。
それは、最初の聖女マルタエルこそ、神に遣わされた“異世界の聖女”だったからだ。
それに倣い、召喚は今もなお続けられている。
……とはいえ、いきなり異世界に呼ばれて、“獰猛な竜を制御しろ”なんて、正直ピンと来るはずがない。
「……あの、聖女のことは分かりましたけど……その、元の世界に戻ることって……できるんでしょうか?」
念のため、聞いておきたかった。
雰囲気から嫌な予感はしていたけれど、それでも、わずかな希望があるかもしれない。
「それは……聖女様。申し訳ありませんが、それは叶いませぬ」
アンブローズさまは眉を下げ、まるで自分の罪のように告げた。
隣のウィリオット王子も、苦い顔をしている。
その彼と初めて言葉を交わしたのは、召喚された直後のことだった。
あの時の第一声は、今でも耳にこびりついている。
――――本当に、これが“竜の聖女”なのか?
重低音の声に、全身から放たれる圧。
空気が重くなり、息が詰まりそうな感覚に陥る。とても怖くて、口答えなんてできなかった。
でも、代わりにアンブローズおじいちゃんが、静かにたしなめてくれたんだ。
――――そのような発言は、たとえ第二王子の貴方様でも許されませんぞ。
けれど王子は眉をひそめたまま、吐き捨てるように言った。
――――こんな地味な女、どこにでもいる。聖女だなんて、とても思えん。
その冷たい言葉に、私はただ、俯くことしかできなかった。
(……だから、こういう人は苦手なのだ)
細身で柔らかい雰囲気の人ならまだいい。
けれど、がっしりとした自分の身体が“武器になる人”は、無意識にプレッシャーをかけてくる。
ただでさえ、人と話すのが苦手なのに、攻撃しないでほしい、と心の中で呟いた。
「代わりに、王族と同等のご身分と待遇をご用意させていただきます。歴代の聖女様方にも、何不自由なくお過ごしいただいた実績もございますゆえ……どうか……」
アンブローズおじいちゃんが、静かに、けれど切実に語りかけてくる。
でも、“異世界から呼び出しておいて、この世界で生きてください”なんて、「はい、わかりました」と簡単に受け入れられるはずがない。
私は、私の人生を――前の世界で生きていたのだ。
大学に通い、挨拶を交わす程度の知人もいて、家族からは、それなりに愛されていた。
突然、そんな私が消えたら……。
母も、父も、悲しむなんて言葉では足りない。
絶望するだろう。視界が真っ暗になるくらいに。
それでも今、私に希望を託している人が、目の前にいる。
アンブローズおじいちゃんをはじめ、この豪奢な貴賓室に集う人々は、きっと皆、同じ思いで私を見ているのだろう。
ウィリオット王子ですら、その視線にはどこか、“苦渋の選択”として私を見ている気配があった。
もし、「ノー」と告げたら、私は……この城を、追い出されるのだろうか。
あの王子なら、それくらい言い出してもおかしくない。
アンブローズおじいちゃんよりも、彼の方が遥かに“上の立場”だ。
命令されれば、誰も逆らえないのだろう。
だとすれば、私に残された選択肢は、ひとつだけ。
何の取り柄もない、ただの人見知りの女。
けれど、その私に“願い”を向けてくれる人がいる。
理屈じゃない。
その気持ちだけを胸に、私は目を伏せて、小さく頷いた。
「……何ができるか、わからないです。けど……力になれるなら……」
「ハルカ様!」
アンブローズおじいちゃんが、嬉しそうに顔を輝かせて立ち上がる。
その目は、ほんのりと潤んでいるようにも見えた。
ウィリオット王子は、少し面食らったような顔をしていたけれど、すぐにまた、仏頂面に戻る。
一体、彼の眉間の皺をほどくには、何をすればいいのかわからない。
「それでは、ハルカ様。さっそく薄明竜のもとへ、参りましょう」
アンブローズおじいちゃんが立ち上がり、柔らかな微笑みを向ける。
そのとき、ようやく私は気がついた。
私が今から向かうのは、“かつて残虐非道の限りを尽くした竜”のもとであるという事実に。
遅れてやってきたその恐怖が、じわじわと胸の奥を締めつけてきた。