第15話
遠方からゴロゴロと雷が鳴っていた。
それはまるで、僕に速く走れと催促するように、定期的に音を鳴らす。
僕は渡瀬霞に会うべく、彼女のマンションへ向かって走っていた。
はぁはぁという自分の荒い呼吸と、高鳴る鼓動がやけにうるさく聞こえる。
うっすらとかき始めた汗が、向かい風を受けてじんわりと体を冷やす。
体の内側が、やけに熱い。
それはきっと、ペース配分も考えずにがむしゃらに走っていたせいもあっただろう。
でも、心臓が高鳴る度、絡まりそうな足を必死に動かす度、痛み始めた胃が主張が始める度、心の奥底に宿る熱がそれだけじゃないだろうと伝えてくる。
いつの間にか熱を持ち始めた心の火種が、僕を内側から焦がし始めている。
――僕は、なんて単純な人間なんだろうな
あれだけ燻っていたにも関わらず、伊織先生の言葉で簡単にその熱を取り戻していた。
身勝手だと怒られるかもしれない、自己陶酔しすぎだと笑われるかもしれない。
それでも僕は、この内側に宿る熱を吐き出したくてしょうがない。
閑静な住宅街が並ぶ景色が、開発途中の空き地がまだ残る駅前の風景に変わっていた。
僕は悲鳴を上げる体を動かして、彼女が居るであろうマンションへと向かう。
――そして僕は、なんて馬鹿な人間なんだろうな
僕は、これまでのちぐはぐな行動を思い出していた。
友達が欲しくないといいながら、嫌われることを選ばなかった自分。
もう無駄な足掻きはしないと諦めたはずなのに、諦めきれなかった自分。
それはきっと、承認欲求に飢えていたがゆえの矛盾した考え。
本当は誰かに認めて欲しいのに、恥や過去が邪魔をしてそんな自分を認められなかったのだ。
これではただのかまってちゃんではないか。
そして、渡瀬霞が絡んだ時の僕の無茶な行動。
あれは多分、僕が勝手に彼女に自分を投影していたがゆえの行動だった。
友達らしい友達がおらず一人でいることを選び、根拠の無い噂に脅かされる彼女に、僕はきっと同情していたのだろう。
僕と彼女の違いといえば、理解者がいるかどうかの違いでしか無い。
たまたま僕には啓一という理解者がいたために壊れずに済んでいたが、渡瀬霞にはそれが見当たらなかった。
だから、身勝手にも自分が理解者になろうとした。
そして、なろうとして失敗した。
元々、自分のような歪な存在が、啓一のように寄り添えるはずが無かったのである。
彼女の為になるはずであろう行動も、思考も、それは全て自分の押し付けだったのだ。
渡瀬霞の考えが読めるはずもない、だって彼女は僕では無いのだから。
ならばせめて僕は、僕らしく彼女に寄り添うべきだ。
今更遅いのかもしれないし、迷惑かもしれない、そもそもできないのかもしれない。
いや、きっとこの考えもただの承認欲求なのだろう。
この期に及んでも、多分僕は、彼女に認めて欲しいだけなのだ。
ぐるぐると回る思考が、答えを求めて脳内を彷徨う。
色んな考えが、想いが、過去がよぎっては何かしらの言い訳を探している。
もういい加減、認めるべきだ。
この醜い自分を、受け入れるべきだ。
間違っていると、怒ってくれる人がいる。
まだ終わっていないと、諭してくれる人がいる。
答えを持っていると、道を示してくれる人がいる。
僕が一人で必死に守ってきたつもりだった心の焚き火は、きっと誰かの協力の上で守られていたのだ。
遠くに見える大きな炎と自分の小さな焚き火を見比べては羨んで、惨めにも薪をくべるだけだった僕の周りで、その焚き火を消えないように守ってくれていた人がいる。
ならば、僕はその人たちの気持ちにも報いるべきだ。
気持ち悪い自己陶酔でも、我儘な承認欲求でも構わない。
その全てを受け入れて、今度こそ彼女の隣に寄り添えるように。
そうして僕は渡瀬霞のマンションへと辿り着いた。
正面の自動ドアをくぐると、その奥にはロックされたもう一つ自動ドア。
外はようやく着いたかと言わんばかりに大粒の雨が降り始めて、一気に雨足が強くなる。
ざああという音と共に水の塊がコンクリートを打ち、ゴロゴロと不機嫌そうな音を立てて外が眩しく光る。
僕は呼吸を整えながら、もつれる足を動かして壁際のパネルの前に立った。
――もし私の言葉を信じてくれるのなら、インターホンを鳴らす前にきっちり五分待つといい。
それは、保健室で聞いた伊織先生のアドバイス。
おまじないようのようなものだ、とも言っていた。
まぁ、確かに今の状態では彼女にうまく言葉を伝えられないかもしれない。
無茶をしたせいで体は悲鳴をあげているし、そんな状態で考え事なんてしていたせいで脳はオーバーヒートを起こし始めている。
僕は逸る気持ちを無理やり押し込めて、替えたばかりのエメラルドグリーンの携帯を取り出して、タイマーを五分にセットした。
そこからの五分はひどく長く感じたし、とても短くも感じた。
まだかまだかと心は急かし、脳は言うべき言葉を探して思考の海を彷徨う。
結局、何を言うべきか決まらないまま、携帯はアラーム音を無慈悲に鳴らす。
僕は、覚悟を決めて、「2」「0」「2」とボタンを押して、最後に「呼び出し」のボタンを押した。
お洒落な呼び出し音が流れて、緊張が一気に高まる。
けれども音はすぐに鳴りやんで、反応が無いままに時間が過ぎる。
いや、もしかしたら備え付けのカメラ越しに僕の姿を確認して、居留守を決め込んでいるのかもしれない。
何にせよ、こうしてマンションの呼び出しなどしたことが無いので、どうなっているのかはよく分からない。
でも、もし、僕の姿が彼女に映っていて、僕の声が届くのだとしたら。
そんな希望が僕の思考にちらついて、気付けば僕は無言のインターホンに向かって喋りかけていた。
「あの・・・もしもし僕、幸城・・・幸也だけど」
はたから見ると、滑稽に映るかもしれないし、内容によっては通報されてもおかしくは無いかもしれない。
それでも僕は、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「あの・・・さ・・・」
心が逸る。
早くこの心を伝えるのだと、心臓が高鳴る。
「僕は本当に面倒なやつだと思う。たった一回傷つけられただけで落ち込んで、こじらせて、腐っちゃうくらいに」
インターホンは相変わらず無反応で、僕の言葉は激しい雨音に混じって虚空に消える。
もしかしたら、僕の言葉は彼女に届いていないのかもしれない。
伝わって、いないのかもしれない。
それでももし、と心のどこかで何かを期待する自分がいて、口を動かした。
「もう恋なんてしないと思ってた。したくなかった。それが僕の信念だったんだ。だから、友達ですらいらないと思ってた」
そうだ、全ては過去の話だ。
僕がしなければならないのはこれからの、未来の話。
都合がいいだけかもしれない、自分勝手な言葉を並べているだけかもしれない。
それでも僕は、自分自身が変わっていくために、過去の自分を、受け入れるために言葉を続ける。
「でも間違ってたんだ。過去を言い訳にして、誰かと向き合うことを恐れてた。本当の意味で、ぶつかろうとしなかった。そんなのはただの逃げでしかないのに、自分を正当化することで誤魔化していただけだったんだ」
僕は、何を言っているんだろうな。
言い訳じみた言葉ばかり並べて、言うべき言葉を先送りにしているだけではないか。
これでは、今までの自分と大差無い。
少しばかりの沈黙が、辺りを包む。
降り続いているであろう雨音も、不機嫌そうな空音も、僕の耳には届いていなかった。
覚悟を決めろ。
逃げるな。
受け入れろ。
そして、一歩でも前に進むんだ。
――答えは、正直者の胃に聞いてみるといい。
僕の脳裏に、伊織先生の言葉が蘇る。
そうだ、僕の本心はこの痛みが教えてくれている。
ずっと煩わしかっただけのこの痛みが、今だけはすごく愛おしい。
だからいい加減、認めるべきだ。
この痛みも苦しみも、感情を、気持ちを表しているものだと。
「僕は、君の事が――――好きだ」
僕はこの日、この時、生まれて初めて告白をした。
中学時代に言えなかったこの一言を言うために、僕はここにいる。
不器用で、不愛想で、捻くれて、卑屈な自分がようやく辿り着いた、一つの答え。
ラブなのかライクなのかも分からないけれど、僕の痛みが教えてくれた、心からの言葉。
まったくもって不便な世の中だ。
なぜ『好き』か『嫌い』かの二択でしか選べないのだろう。
『無関心』という言葉は中間でも何でもなく、どちらも否定する言葉だ。
ならば僕は、心の針がどちらに傾いているかで答えるしかできない。
「今更許してくれなんて言えないし、許されるとも思ってない。でも、これが僕の本心なんだ。だから――――」
一度動き出した口は止まらずに、僕の心を吐露し続ける。
「――本当に、ありがとう。僕なんかの言葉で涙を流すほど苦しんでくれて、おかげで僕も少しは必要とされていた人間なんだって、気付くことができたよ。だから、だからもしまた必要としてくれるのなら、僕は霞さんの隣にいたい」
受け取り方によっては、かなりひどい言い草になりかねないけれども、それが僕の本心だ。
他人の為なんて思いながらも、結局自分のことしか考えていないあたりが実に僕らしい。
また怒られるかもしれないな。
そんな自嘲を胸に秘め、それじゃあと一言呟いて踵を返した。
しかし、帰ろうとする僕を引き留める存在が、そこにいた。
どん、と体当たりするような衝撃を受けて、僕の足が一歩後ろへ下がる。
続いて拘束するかのように何かが僕の体をぎゅうと締め付けた。
あれ?え?
僕の目線のすぐ隣に流れる金髪を見て、しばらくの間を置いて僕に抱きついているその姿が、渡瀬霞の姿であると認識した。
なぜ?
どうして?
彼女は部屋にいるものばかりと思っていた僕は、今の状況に理解が追い付かないままでいた。
鼻をすすり、肩を震わせながら抱きついている彼女の熱が、じんわりと僕の体に伝わる。
こうして彼女を泣かせるのは、何度目だろうな。
場違いにもそんなことを思いながら、体に伝わるその熱がひどく心地よかった。
本当に人間は無意識に熱を求める生き物なのだということを実感して、僕は無意識に彼女の背中に手を回して、抱きしめ返していた。
そうしてしばし渡瀬霞の嗚咽を聞きながら、お互いの体温を感じていると、ふと気付いた。
彼女はいつからそこにいたのか分からないほどに、びしょ濡れだったのだ。
制服はたっぷりと水分を含み、特徴的な金髪もまた、水分を吸って艶々と光を放っていた。
僕はいつぞやの言葉を思い出して、口を開いた。
「髪、ずいぶん綺麗になったね」
一瞬、びくりとした振動が体に伝わり、うん、うんと僕の隣にある頭が上下する。
思えば、この髪を褒めるのは初めてのことだ。
あれだけ言われていたことを、今更ながらに言葉に出す。
好きだと気持ちを伝えるのよりも、ずっと簡単なことだった。
「あの・・・さ・・・すごく都合がいいかもしれないんだけど、お願いがあるんだ」
それは多分、僕の我儘。
それはきっと、僕の自分勝手な願い。
僕らの体が自然と離れて、お互いの顔が正面から向き合う。
「もしよければ・・・なんだけどさ――」
彼女のまっすぐな瞳が、僕を貫く。
僕はその視線を受けて、言葉を紡いだ。
「僕と、友達になって欲しいんだ」
彼女は、僕の言葉を正面から受け止めて、笑って言ったのだ。
「はい・・・!」
初めて見せるその笑顔に、僕の胸は高鳴って、内臓をきゅうと締め付ける。
これで、いい。
これがきっと、僕たちが火傷しない丁度いい温度なのだ。
「ありがとう」
僕は自然と顔が綻んで、そう返していた。
そこでようやく、僕は自分の状況を思い出して、顔が熱くなった。
マンションの入り口で、僕らはなんてやり取りを、いや、僕はなんて言葉を口にしていたのだ。
気恥ずかしさから視線を足元に落とすと、彼女の白い足が目に入って、膝の部分から赤い液体が垂れているのが目に入った。
本当に、霞さんはいつからそこにいたんだろう。
雨に濡れて滲んでいるその血液は、彼女の黒いソックスに吸い込まれるように消えている。
「まったくもう、血だらけじゃないか。ほら、早く消毒しよう」
「カード・・・キー・・・教・・・室に・・・に・・・忘れ・・・た・・・」
きょとんとした顔で告げた霞さんは手ぶらだった。
彼女の言葉はつまり、自宅であるマンションに入れないことを意味していた。
それに気付いて、僕は「なら一回学校に戻ろうか」と提案した。
「とりあえず傘が必要かな、ちょっと行って買ってくるよ」
未だに降り続ける雨は、最初ほど勢いが無いものの相変わらずコンクリートを打っている。
僕が傘を買うために外に出ようとすると、きゅっと制服の袖を掴まれた。
「わた・・・しも・・・行く・・・」
赤く腫らした目でそう伝えてきた彼女を邪険にはできず、僕は提案していた。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「うん・・・・!」
再び嬉しそうに頷く霞さんを連れて、僕らは手を繋いで雨の中を歩いた。
本当ですね、伊織先生。
人の熱は、そう簡単に失いやしない。
手のひらを通して伝わる体温と、自身の内側に宿る火種は、この程度の雨で冷めることは無かった。




