第14話
なぜ、僕はこんなところにいるのだろう。
頭上を見上げると、『保健室』のプレート。
本当は帰るつもりで歩いていたはずなのに、気付けば僕はこんなところにいる。
今更悩み相談でもするつもりか?
いいや、これ以上傷口を広げるべきでは無い。
扉の奥から聞こえる話し声に、僕は諦めて帰ろうとした。
しかし、がらりと扉が開く音がして一歩後ろへたじろいだ。
「それじゃナナコちゃんまたねー」
「相談乗ってくれてありがとー」
「うるさい、ナナコちゃん言うな。そしてもっと大人を敬え」
一組の男女が、扉の正面に立っていた僕に当たりそうになって、「あ、ごめん」と一言残して、仲良さげに去っていく。
僕はそれをぼんやりとした目で見送ってから、開けっ放しにされた扉を先に目をやる。
「なんだ?入らないのか?」
教員用のデスクに座っている、小柄な保健室の主と目が合うと同時に、声を掛けられた。
「ああ、いえ・・・僕は・・・」
「待て、帰ろうとするな」
反射的に扉を閉めようとして、伊織奈々子先生に引き留められる。
「まったく酷い顔をしている。ほら、コーヒーを入れてやる。さっさと入れ」
そう言って椅子から立ち上がり、返事を待つまでもなく準備を始める。
僕はその様子を少し見守ってから、諦めたように失礼しますと小声で中に入った。
「キミは普通のコーヒーとカフェオレ、どちらが好みだ?」
電子ケトルの電源を入れ、戸棚をごそごそと漁り始めるその小柄な背中を見ながら、僕は「なんでもいいです」と答えた。
伊織先生は一瞬こちらを見て、ならカフェオレでいいかと呟いて、スティック袋を二つ取り出す。
慣れた手つきで準備をしている先生を見ながら、本当にカウンセリングも担当しているんだな、と思った。
普通の保健室にコーヒーや電子ケトルが常備してあることには、今更驚きもしなかった。
僕は使い古されたソファに座るよう促され、大人しく座ってカフェオレが出来上がるのを待った。
「ほれ」
「・・・・ありがとうございます」
僕が差し出された紙コップを受け取ると、伊織先生は「まったく今日は客人が多い」と呟いて、教員用のデスクに戻る。
「それでユキシロくん、キミは一体どんな要件だ?」
「・・・僕の事、覚えててくれたんですね」
「あのカスミくんの知り合いだからな、すぐに覚えたよ」
かすみ、という単語に一瞬びくりとして、僕は黙った。
紙コップに注がれた、柔らかな茶色の液体をぼんやりと眺めながら僕はどうするべきか悩んだ。
「悩みがあるんだろう?話してみたまえ」
「あの・・・悩みとかそんなのじゃなくて・・・」
「ちなみに、喋るまで帰すつもりは無いぞ」
「・・・・・・」
僕が悩みを喋るまでもなく、まるで見透かしたように言葉を紡ぐ伊織先生。
僕はそんなにわかりやすい顔をしていただろうか?
ふー、ふー、と熱い液体を冷ましながら紙コップを傾ける伊織先生を横目で見て、駄々をこねるように「じゃあここに泊まります」と答えた。
「それは困る、私が帰れないからな。いい加減溜まってきた洗濯をしないと、着るものが無くなってしまうではないか。あと煙草も吸いたいし酒も飲みたい」
「なんですかそれ・・・」
私欲まみれのそんな言葉に、ため息がこぼれた。
「まぁ、何が言いたいのかと言えば、キミのような顔をした生徒を放っておけないということだよ。何をしでかすかわからない、という意味でな」
「はぁ・・・」
「なんだ、不満そうだな。あれか?別にあんたの為じゃないんだからね、とでも言えばいいのか?」
「・・・・・・・」
至って真面目な口調で伊織先生はそう言った。
いや、もしかしたら先生なりの緊張をほぐそうという気遣いなのかもしれないが。
「安心しろ、誰かに話すほど口は軽くない。私にも守秘義務があるからな」
先生の頑なな催促に僕は折れることにした。
こうなったら、全て話して楽になろう。
「・・・実は今日、色々ありまして――」
そうして僕は、今日の放課後のやり取りを全て話した。
啓一に間違っていると怒られたこと。
霞さんに嫌いだと言ってしまったこと。
霧沢さんに裏切りと同じだと諭されたこと。
僕の懺悔のような言葉に、そうか、それで、と相槌を打ちながら、伊織先生は真剣に聞いてくれた。
その相槌に、気付けば僕はそのまま中学時代の出来事まで話していた。
その後に陥った、恋愛恐怖症や胃痛の事まで、全て。
話す必要の無かったことを含めて全部さらけ出して、僕は「そんな感じです」と締めくくった。
喉を乾きを感じて、まだ温かなカフェオレを一口啜った。
ほんのりと甘いその液体が、少しだけ喉を潤す。
伊織先生はそんな僕を観察するように、なるほどなと、ぽつりとこぼして言葉を続ける。
「キミはその歳にして随分と人生観を歪めてしまったようだな。いや、歪められたと言った方がいいか」
「どうやらそうみたいです」
間を開けるかのように先生も一口コーヒーを啜り、そのまま口を開く。
「そうだな、キミは生命とはなんだと思う?」
「え・・・・・・?」
唐突に投げ出された伊織先生の問いに、僕はぽかんと口を開けていた。
生命とは何か、だと?
なぜいきなりそんな話に――
「そう驚くな、別に無関係な話をしようっていうんじゃない。そうだな、まぁ哲学のようなものだと思って乗ってくれ」
「はぁ・・・わかりました・・・」
「生命、つまり命のことだが、ユキシロくん、キミはこのテーマについてどう思う?どのような答えを出す?」
僕はその問いに、無い頭を使って必死に考えた。
こんなことを考えている場合では無いはずだが、先生が無関係では無いと言うのならば、乗ってみるのも手だ。
「そう・・・ですね・・・『弱肉強食』・・・?」
「ほう、その心は?」
「命の格差、っていうんですかね・・・下の存在は上の存在に抗えなくて、弱い存在は食い物にされるだけ、みたいな」
「なるほどな、まさに『自分のような存在は淘汰されるだけ』という実にキミらしい後ろ向きな意見だ」
「どうも・・・」
「まぁそう不貞腐れるな。それに正直、進化さえすれば立場は逆転しうる理論だしな」
「・・・じゃあ、伊織先生はどう考えてるんですか?」
「私はこう考えるよ、生命とは熱である、とね」
「・・・熱、ですか?」
「そう、熱だ。元々生命は熱水からはじまったという説もあるし、言葉の上でも熱があることは生きているものと定義され、逆に熱を失ったものは死んだものとされる」
「はぁ・・・」
「そして同時に、生命とは無意識に熱を求めるものなのだ、とね。植物が日光を求めるように、人が温もりを求めて肌を重ねるようにな」
「・・・それ、高校生相手に言うようなことじゃ――」
「何も生殖行動のことだけを言っているのでは無いよ。そもそも、挨拶としてのハグや握手がなぜ広がったのかを考えてみろ。それこそ人が無意識に他者の熱を求めている証拠ではないか」
「確かにそうかもしれませんけど・・・」
ハグも握手も、確かに肌を合わせる行為の一つであることは確かだろう。
まるで子供のような屁理屈に、僕は大した返しも見つからず、そう返した。
「まったく、納得のいっていない顔だな。そうだな、では卵の話をしよう」
「たまご・・・?」
「そうだ、もちろん食用のものでは無く、生命の種としての卵だ。例えば鶏だが、なぜ卵を温める必要があるのだ?」
「・・・そうしないと、孵化しないから、じゃないんですか?」
「そうだな、その通りだ。親鳥が必死に自信の熱を伝え、その結果として命が宿る」
「でも、卵を温めない生き物だっているでしょう?」
「いい着眼点だ」
伊織先生はそう言ってカフェオレをまた啜る。
僕もそれにならって一口カフェオレを啜る。
「卵を温めない生き物。つまりトカゲのような変温動物は、卵を温めずとも孵化してしまう。私が生物教師なら百点はあげたいと思ういい答えだ」
「ありがとうございます・・・」
本当は中学の理科で習ったことなのは、流石に黙っておいた。
「ではなぜ、彼らは卵を温めないのかと考えたことはあるか?」
「え・・・?」
変温動物、自身の体温を持たず、卵を温めない種族。
脱線したかと思われる話に続きがあるとは考えておらず、僕は虚を突かれた。
「・・・温める必要が無いから・・・ですかね。温めなくても孵化するなら、別に何もする必要がない、って」
「なるほどね。つまり卵は初めから温める必要なんて無かったと、キミはそう考えるか」
「伊織先生は、違うんですか?」
「私はむしろその逆だよ。最初から卵を温める必要が無かったのではなく、進化の過程で温めることを必要しなくなったのだ、とね」
「・・・どういう、ことですか?」
「私の好きな話にこんな一説がある。『変温動物の歴史は卑屈になったものの歴史である』とね」
「卑屈になったものの・・・歴史?」
「そう、卑屈になった彼ら変温動物は、卵を温めることをしなくなったのだのだよ」
「すみません・・・意味がちょっと・・・」
「私の考えではな、彼ら変温動物も最初はきちんと体温という名の熱を持っていた筈だったんだよ。しかし、卑屈になったがゆえに、自身の体温をいつしか信じられなくなっていった。『自分のような存在が何をしても無駄だ』とね。だから、温めるべき命の種である卵を前にして、逃げ出したんだよ」
「だったら――」
「言わんとしていることは分かるよ。そんなことが蔓延しては種が絶滅してしまう、と言いたいんだろう?だが、私はこの理論に論理性など求めちゃいないさ。哲学のようなものだ、と最初に言っただろう?」
「いやまぁ・・・そうですけど・・・」
「だったら変につじつまを合わせようとする必要も無い。偶然あった一つの出来事から種が変異することなど、ありえんことではないしな」
そこで区切るようにカフェオレを一口啜って、伊織先生は言葉を続ける。
「つまり、私が言いたいのは、だ。卑屈になってしまった彼らは、進化の過程で体温を失ってしまったんだよ。これはもはや退化と言っていい」
「・・・・・・」
「思い込み、というのは時としてこういった退化を生み出してしまうんだ。それはまるで、今のキミのようにね」
「・・・っ」
「キミもまた、自分の熱を信じられなくなっているだけだ。『どうせ何をしても無駄だ』と決めつけて、動き出せずにいる。今のキミはそう言った退化をしかけてしまっているんだ」
急に話を僕の事に向けられて、どきりとした。
僕が退化の過程にあると、そう言われて僕は言い返すことができなかった。
「でも、僕は・・・もう自分で自分が信じられなくなってるんです・・・今の自分が正しくないことも、間違っていることもわかっているのに、何をしたらいいのかもわからないんです」
すっかりと飲み頃になっていたカフェオレの温度を手に感じながら、僕は俯いて言葉を発した。
「伊織先生が生命とは熱である、と言うのならば、僕の熱はもう失いかけてるんです。燻っている、って言った方がいいんですかね。不快な煙ばっかりあげて、火種はもう消えかけてるみたいな感じです」
「そんなことが諦める理由になるとでも思っているのか?」
「え・・・?」
「燻っていることに、何の後ろめたさがある。この先何度そういう目にあうと思っているんだ?」
「いや・・・だってもう消えかけてるんですよ?水を一滴垂らすだけで、消えちゃうんですよ?」
「それがなんだ。燻っているということは、再び燃え上がる為の熱をまだ宿している証拠ではないか」
「――っ!」
「失った熱は、何度だって取り戻せる。挑戦して、成功して、失敗して、何もしなければ消えてしまう火種も、そうやって熱を取り戻せるはずなんだ。そして人間がその火種も、熱も失うことは絶対にありえない。失うとしたら、それは死んだときだけだ」
「でも、僕はその方法が分からないんです。何をしたらいいか、何をすれば正解なのかもわからなくて――」
「では、はじめから正解を持っていたとしたらどうする?」
「え・・・?」
「キミに一つ、ヒントをやろう。人間は、言葉でも熱を伝えることができる生き物である、とね」
「言葉でも・・・熱を・・・?」
「そうだ。何も肌を重ねることだけが熱を伝える手段ではない。そして、初めに言ったように生命とは熱であり、無意識に熱を求めるものなのだと言っただろう?ならば、相手が何を求めているのか、考えてみたまえ」
「・・・・・・・」
相手の求めているもの、言葉によって熱が伝わるというのならば、それはきっと熱意のこもった言葉。本心からの、心がこもった言葉。
「キミは実に運がいい。過去にそれだけのことがあって、その痛みを十二分に知っている。そしてその痛みは、キミの本心を現しているではないか」
「それは・・・」
「答えは正直者の胃に聞いてみるといい。どうすればいいかも、きっと知っているはずだ」
僕はそこまで聞いて、残っていたカフェオレを一気に飲み干した。
まだ熱を宿すその液体が、僕の冷え切った体を内側から温めていく。
「さて、どうかな。私の言葉は君にきちんと熱を伝えられたかね?」
「どうでしょう、よく分かりません」
僕は苦笑して立ち上がって、コーヒーご馳走様です、と言って近くにあったゴミ箱に空になった紙コップを放り込んだ。
「もう行くのか?」
「そうしようと思います。まずは無駄に足掻いてみようかと」
「そうするといい。その分だけきっと身体も温まるはずだ」
「はい」
「ああ、それともしカスミくんの会いたいならば、彼女の家に行ってみるといい」
「家に・・・ですか?」
「そうだ。そしてもし私の言葉を信じてくれるのなら、インターホンを鳴らす前にきっちり五分待つといい」
「・・・?五分・・・?」
「深く考える必要は無いよ。失敗しないためのおまじないみたいなものだ」
「はぁ・・・」
そうして僕は、保健室を後にするために歩き出した。
「――ああ、それと」
「まだ何か?」
途中で伊織先生の呼び止める声が聞こえて、僕は振り返った。
「もし失敗して熱を失いそうになったら、私が直に温めてやろう。もっともその場合、三千や六千円では足りないから、人生の最後まで付き合ってもらうがな」
「伊織先生みたいな偏屈な人、願い下げです」
「それは偶然だな。私も実はキミのような捻くれた人間はお断りだと後悔し始めている」
僕はそれでは、と笑って、今度こそ保健室を後にした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「さて、いい加減出てきたらどうだ?」
ユキシロ少年の気配が完全に消えたのを確認して、私は反応の無いそちらに向かって歩き出す。
「せっかく時間を稼いでやったんだ。キミも早く行ってあげるべきではないのかね?」
カーテンを開けて、その奥で泣きべそをかいていた筈の人物を見やる。
艶が戻りつつある金髪に、全体的に細い体。
渡瀬霞がこちらを睨むようにこちらを見下ろしている。
「・・・・・・」
「そう睨むな、別に彼を騙そうとしていたわけでは無い。お前が勝手にそこにいただけだろう?私には何の落ち度もない。それに、キミだってユキシロくんの考えを知りたかっただろうに」
「そ・・・れは・・・そう・・・だけど・・・」
少し間を開けて、渡瀬霞は諦めたように小さくため息をつく。
まったく、どれだけ泣けばこれだけ目を赤くできるのだろうな。
「ともかく、早く行けポンコツ娘。五分もあればキミの足でも追いつくだろう。私の厚意を無駄にするつもりか?」
「わかり・・・まし・・・た・・・」
そう言って足早に去っていく後ろ姿を見送って、私はため息をついた。
「まったく、話が二転三転と、私も少しは話術を磨くべきか」
自嘲するように独り笑って、私はカルテを書くためにデスクに戻った。
「温めすぎて茹で卵にならないといいが・・・」
去って行った二人を思い浮かべて、少し心配をする。
まぁ、きっと大丈夫だろう。
ああいう不器用な人間ほど、意外とうまくいくものだ。
「さて、卵から生まれてくるのは雛鳥か、恐竜か、どちらだろうな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇




