温かな夕餉に、明日への展望
冷涼な風が一陣、足早に駆け抜けていく。
斜に構えた太陽がその光を弱めながら沈みゆく。
主補を交代するように、小さく顔を出した月が宵を告げる。
そこに駆ける音が一つ。
淡く弾む呼吸はそのままに、引き戸に手をかけて力を込める。
「ただいまー」
応じる返事の無いことを見越しているかのように、流れる動作で靴を脱ぎ、下駄箱へとしまう。
そして足早に歩いてゆく先からは、仄かに芳ばしい食事の香りが漂ってくる。
廊下の突き当たり、床板の色味が変わった先の食堂に入るや否や、
「ただいま、お姉ちゃん」
湯気の立つ調理場に向かっている背中に声をかける。
リズムよく包丁を動かしていた手を止めて振り返り、
「おかえりなさい、千華ちゃん」
柔らかく微笑んだ静音は、
「仕込みのお時間ずれたから、お父さん達のお夕飯はもう少しあとよ。千華ちゃんはお当番あるから先食べるでしょう?」
「うん、食べるー。すぐに着替えてきちゃうね」
そう言うと返事を待たず、身体を翻して小走りに食堂を後にする。
着替えるために自室まで向かっていた千華は、和室の前で足を止める。
暗い室内の様子は判然としないが、部屋の縁に手をかけて中をのぞき込むと、
「ただいま、お母さん」
そう呟いて、再び廊下を歩き出す。
声をかけられた和室には、季節外れの秋虫の羽音が微かに響いた。
くつくつと煮込まれる音。
片や隣の鍋からは軽やかに爆ぜる音。
それらの指揮者は優美な手つきで食材を撫でてゆく。
すると、
「お腹すいたー」
暖簾をくぐった千華が空腹を訴えながら、静音の元へ歩いてゆく。
「ふふっ。もう出来るわよ」
「わっ。天ぷらだ!やったー」
「三人分のお皿出してちょうだいね」
「うん。神楽さんも一緒?」
「そうよ。少し遅れてくるでしょうけど」
手に持っていたクリアファイルをテーブルへ置くと、棚からテンポよく皿を出してゆく。
「そっちの煮物は小皿がいいよね?」
「そうね。そうしましょう」
そこに遠くから引き戸の鳴く音が聞こえ、
「こんばーん!」
凛と響く大声量。
「あっ、来たみたい」
暫くして、暖簾をくぐって入ってくる女性。
「静音ちゃん千華ちゃん。やっほー」
「こんばんは神楽さん」
「こんばんは神楽ちゃん。早かったけど、ちゃんと寝られたのかしら?」
姉妹に神楽、と呼ばれた女性、祭火神楽はすぐ近くの椅子を引いてやや乱雑に座ると、
「やー。何だかんだ用事片づけてたらあんまり寝られなかったよー」
テーブルに頬杖をつく。
「神楽さん夜当番でしょう?寝てなくて大丈夫なんですか?」
小さな椀の乗ったお盆をテーブルまで寄せ、それぞれ置き分ける千華。
そんな心配の声に、
「ふっふー。大丈夫なのよこれが。夜中には源さんが交代してくれるし、なんたって明日からは仕込みが始まるからね!」
話しながら頬杖を外して目の前に置かれた汁椀の香りを吸い込む。
「おぉいいねぇあおさ汁。一緒に入ってるのはあさり?」
「そうよ。旬では無いけれど、いただいたものを冷凍しておいたの」
答えつつ優雅な手つきで天ぷらを器に盛り付けた静音は、
「千華ちゃん、これもお願いね」
「はーい」
そうして食卓には芳ばしい料理が並ぶ。
姉妹が席につくと、揃えるように三人背筋を伸ばす。
『いただきます』
見事にハモらせた挨拶は綺麗に響きわたり、各々箸を持って夕餉が始まった。
「そういえば、お姉ちゃん」
箸を置いてお茶に手を伸ばす千華。
「?なにかしら」
「今日、私の学校に来てたよね」
同じように箸を置いてお茶に手を伸ばす静音。
「あら、見てたの?声かけてくれればいいのに」
「や、友達からの又聞きだったから。もしかしたらそうかなーって」
その言葉に、湯飲みを両手で軽く持ったまま、
「そうね、ちょっと職員室の方へ伺ったわよ」
「そっかー。・・・お仕事?」
「えぇ。うちで作った酒饅頭と酒ケーキ、学校でどうかと思って」
「えっ。学校で売れるのそれ?」
「ケーキはアルコール入っているから難しいと思うわ。酒饅頭はアルコールもとんでいて、購買のおばさまも美味しいって言ってくれてたのよ」
言いながら嬉しそうに微笑む静音。
「そっかー。購買で売れるようになったらいいなぁ・・・ん?」
首をひねった千華は、
「それじゃケーキの試食は?先生達仕事中なのにお酒はまずいんじゃない?」
「ええ、そうね。だからケーキは個包装にして食べてみたいって言ってくださった先生方にプレゼントしたわよ」
「なら安心か」
鏡合わせのように湯飲みを口元に傾ける姉妹。
と、
「それじゃあさ」
神楽が箸を止めて、
「はるるんもケーキ持っていったの?」
無邪気な様子で静音に向かって質問を投げる。
と、むせたように慌てて湯飲みを手元に戻した静音は、
「・・・そうね。澤野先生も持っていってくださったわよ」
澄ました顔で告げる。
その様子を見てうっすら笑みを浮かべた神楽は再び箸を伸ばし、
「そんな他人行儀じゃなくていいのにぃ。ちゃんとお付き合いしてるんだしさー」
そして煮物を口に含む。
「えぇそうね。でも公私混同はしないと決めてますからね」
「お、慌てず大人の回答」
「大人ですから。・・・そういう神楽ちゃんも」
「ん?」
「ちゃんとお付き合いは順調に進んでいるようね。クリスマスデートの段取りは決まったのかしら」
「むぐっ!?」
「わっ。神楽さん、お茶!お茶!」
千華に手渡されたお茶をぐいっと飲み干し、
「・・・ふぅ。・・・それで、なぜその情報が流れてるのかしら」
ジト目で静音を見やる。
「さて、どうしてでしょうね」
その視線をさらりと受け流す。
「ふふっ」
そこで小さく笑う千華。
「む。千華ちゃん、何か知ってるな?」
「あははっ。だって」
おかしさを隠しきれないように笑いながら、
「神楽さんここ最近、ずっと本屋さんで立ち読みしてたじゃないですか。しかもデートの本ばっかり」
「うっ!しまった、それは盲点だった・・・」
痛恨の極みと言わんばかりに顔をしかめる神楽。
「しかも見かけたのが天梨だから、次の日には大体みんな知ってましたよー」
「・・・おのれあまりん。覚えていろよ・・・」
恨めしそうな顔をしつつ、あおさ汁を啜る。
「・・・それで、学校の話に戻るけれど」
静音が千華を向いて、
「千華ちゃん。テスト結果はどうだったのかしら」
「うっ」
咲いた花のように笑っていたその顔は、呻きと共に萎んだ蕾となる。
「三、四教科は返ってきたのでしょう?」
「た、体育があったから、三教科・・・」
「そう。それじゃ合計いくつかしら?」
苦しそうな顔をしつつ、指で三回数字を描く。
「お、すごいじゃん。結構取るねぇ千華ちゃん」
すぐに声をあげた神楽。
「そうね。でも、約束してた点数ではないわね?」
助け船を即座に沈める静音。
「・・・うん。でも」
顔をあげて、
「まだ半分以上残ってるし、自信あるやつも多いから」
見つめ返す静音は、
「・・・そう。それなら期待しましょう」
軽く目を閉じて、湯飲みを持ち直した。
そこで小さな沈黙が降り注ぐ。
居心地が悪そうに視線を彷徨わせていた神楽は、しばらく咀嚼した後、
「まぁでもさー」
『?』
姉妹の疑問符に、
「家の手伝い増やしたいが為に勉強頑張るとか、偉すぎない千華ちゃん」
「そうかな?やりたいことやりたいだけなんだけど」
「そーだよ!こんな子なかなかいないよー」
そこで静音に視線を向けて、
「だからさ、静音ちゃん」
「なりません」
バッサリと切り落とすように拒絶の言葉。
「むぅー。ケチやのぅ」
「ちゃんとしたお約束ですからね」
すると千華も頷いて、
「うん、ちゃんと決めたことだから・・・神楽さん、ありがとう」
柔らかく微笑んで礼を述べる。
「ほわぁ・・・なんて!なんて可愛いんだ千華ちゃん!」
持っていた箸を置いて隣を向くと、千華の両手を握り、
「千華ちゃん!結婚しよう!」
「お断りします」
「わぁい即断だぁ」
身体を仰け反って諦めのポーズをとる。
姉妹が笑っているのを確認すると、食卓に向き直って再び箸を持つ。
「・・・だって」
笑顔の千華が、
「神楽さん、お相手の方がいるじゃないですか」
「そんなの放っておいていいのだよ。全ては千華ちゃんが上なのさ」
「とか言って仲良さげよねぇ、神楽ちゃんのところ」
静音の言葉に意地の悪い顔をした神楽が、
「あらぁ、静音ちゃんだってはるるんと神社でよく睦み合ってるじゃないの」
『・・・・・・』
無言で視線を戦わせる二人。
「ま、まぁまぁ」
宥めるように声をあげた千華は、
「二人とも恋人がいていいじゃない、羨ましいよー」
すると二人の視線はそのまま千華に向き、
「いるじゃん千華ちゃん」
「いるじゃない千華ちゃん」
「・・・え?」
『月理君』
寸分違わず綺麗にハモる。
「いや、ないから」
真顔で返す。
すると年長者二人は顔を見合わせ、やれやれと嘆息する。
疑問符を浮かべる千華には声をかけず、
「さて、ご飯はおしまいかしら」
「そだねー。美味しかった!」
その言葉に三人とも背筋を伸ばし、
『ごちそうさまでした』
声を重ねて夕餉を終えた。
「それじゃ片づけはいいから、二人ともお仕事頑張ってね」
「うん、ありがとお姉ちゃん」
「ありがたやありがたや。良妻賢母の鏡よのぅ」
笑った千華は、
「神楽さん、おばあちゃんみたいですよ」
「失礼な。まだぴっちぴちだよ!お化粧のノリだって負けないぞ!」
「お化粧したことないなぁ」
「お、してみるかい千華ちゃん?何ならお姉さん、高級化粧水だって貸しちゃうぞー」
「あ、化粧水は前使ったことあるんですけど、何かベタベタしてダメでした」
するとピタッと動きを止めた二人が千華に勢いよく振り向く。
「うわっ!どうしたの二人とも?」
ずいっと千華に顔を寄せて、まじまじと見つめ、
「・・・肌年齢」
「・・・言ってくれるな静音ちゃん」
「?」
哀愁漂う二人の小声が、なぜか部屋に大きく響くのだった。




