116 最後の一撃は
ビヒーモスの背中が徐々に近づいてくるにつれて、熱気がすさまじいものとなっていく。
眼下の歩兵勇者達のライフゲージもがりがり削れているのが見えた。
特に、例の人間の踏み入ってはならない領域に差し掛かると、がりっという衝撃を感じた。
またしても鼻血が出ている。ダメージを食らっているらしい。
「飛竜……ダメだダメだ、ガチでやばい! これ以上近づけない!」
思わず弱音を吐いてしまうほどの熱気だった。
もうライフゲージが1割ほど削れてしまった。残りHPは8だ。
エア機能がほとんど役に立っていない。
飛竜はビヒーモスから距離を置くように周回する。
「ぬぅ、仕方あるまい、眷属どもの力を借りるぞッ!」
飛竜が急にドラゴンっぽい叫び声をあげた。
鱗をびりびり震わせながら、周囲のドラゴンたちに吠えかけると、彼らも思い思いに長い首を曲げ、咆吼をあげた。
巨大な空気の球体が膨らみ、それが一気に空気中に拡散していく。
それらが何重にも重なって、全身を襲っていた熱気が少しずつ弱まってゆくのがわかった。
さらに限界まで飛竜はビヒーモスに接近する。先ほどと同程度の熱気を感じる距離まで近づくと、再び空中を旋回しはじめた。
「勇者マキヒロ、見ていないで、お前もやるのだッ!」
「えッ……冗談だよね、それなんて無茶振り!?」
「阿呆が、お前もこれと同じ機能を持っているではないかッ!」
そうだった、持っている。飛竜のツメ。
これは、周辺一帯にエア機能を拡大させる、アトモスフィア機能と同じなのだ。
考えてみれば、俺はドラゴンの力を持っている訳か。
第五宇宙のドラゴンの能力を召喚しているのだから、それは当然だ。
【スキル石(L)、アンロック】
アトモスフィア機能はショートカットを作ってなかったので、アナログで組み立てた。
俺の体を包んでいた青白い大気の膜が一気に膨張していく。
熱ダメージを逓減する球体のエリアの直径が、ようやくビヒーモスの背中まで届くのが見えた。
「まだ足りないッ!」
「ふぅーははははぁーッ! 案ずるな、吾輩を一体誰だと思っている!?」
すると、眼下の至る所からアトモスフィア機能の青白い球体が膨れあがってゆくのが見えた。
足元の歩兵勇者達が、飛竜のツメを空にかざしているのだ。
飛竜が一体どんな権力を使ったのか、ツメを持っている勇者たちに呼びかけたらしい。
何重にも重なった青白い球体が、眼下に敷き詰められ、ビヒーモスの背中にまっすぐ向かう道になっている。
ちょっと待て。
これ、ほとんど全員じゃないか?
エア機能を持っている勇者がこんなにいたとは思えない。
精鋭の勇者は独自の特殊能力を持っているし、魔法勇者にバフをかけて貰っているはずなのに。
「まさか……飛竜、お前またスキルポイントちょろまかしたりしたんじゃないだろうなッ!?」
「ふぅーわははははぁーッ! 全員に同じ事をすれば不正でもなんでも無い! 言ったであろう? 最後に帳尻合わせできるからこその吾輩なのだーッ!」
「ああもう、どうなっても知らねぇ!」
本当に恐ろしいドラゴンだ。
眼下にいる数千人の勇者達のアトモスフィア機能が、何重にも重なっていく。
俺の視界の隅に、状態変化の情報が記された。
エリア情報:炎ダメージ逓減→炎無効
炎無効。
ビヒーモスの全身を覆っていた炎がかき消え、あかね色に染まっていたトンネル全体の空気が、青白い空気で満たされた。
歩兵勇者達の攻撃が再開され、尻尾や背中に群がっていく。
もうすぐ背中に届く。
その白い背中に手が届く。
飛竜の鱗に添えられた手が汗ばみ、ツメを握る手に力がこもった。
この世界にやってきてから、もう丸一日こいつとの戦闘を続けている。
とうとう終わる。
長かった戦闘が、とうとう終わろうとしていた。
元の世界に戻ったら、俺は一体どうするんだろう。
多分、元の世界に戻っても、俺はきっとクズ勇者なんだろう。
自分が活躍できないのを周りや生まれのせいにして。
日がな一日ネトゲで時間を潰して、周囲の大人が与えてくれる希望なんて大嫌いで。
なにもかもに絶望しながら、その実、本当はぜんぜん絶望なんかしていなくて。
それでも時々この世界の事を思い出して。
実力なんかまるでないくせに、たいがいの困難があっても、勇気を持って立ち向かい続けることだけはできるのだろう。
飛竜は空中で全身をひねるように翻し、真っ白い怪物の背中に突進していった。
その時、ビヒーモスが苦しげな咆吼をあげる。
白い肌からまたしても光を放った。
今度こそ特殊効果無効の光だ。
まだ奥の手があったのだ。
「……勇者マキヒロッ! まだ乗っているか、それとももう死んだのかッ! ……ぐふぅッ!」
目映い光の中で、俺は衝撃波によって吹き飛ばされていくのと。
俺を呼ぶ飛竜の断末魔を聞いた。
一瞬死んだかと思った俺は、どこかの岩の上に倒れているのに気づいた。
目を開くと、青白く安全色をしめしていた空気が、急にクリアな色になっていた。
アトモスフィア機能が解除された。
死者数は、5万勇者からさらに膨らんでいた。
俺のライフゲージはさらに2割ほど削れ、HP5か6しか残っていない。
「飛竜……ッ! どこに行ったッ!」
飛竜の様子はどこにも見えない。
全身を強く打って、骨が折れてるみたいだった。
ひょっとして俺の体、脆すぎじゃねぇか?
ツメは俺の手から離れ、遠くに転がってしまっていた。
にじり寄って下の様子を見てみると、金色の飛竜は地面に横たわっていた。
眼下のマグマにじわりじわりと飲み込まれていく。
空気がゆっくりとあかね色に染まっていく。
ビヒーモスの全身を覆っていた炎は、まだ消えたままだ。
だが、それでも凄まじい熱気がじわじわと蘇ってくる。
俺のライフゲージがガリガリと削れていくのが見える。
「く……そぉ……くそぉ……くそおおおおおおおぉぉッ!」
まだだ。まだ、死んでいない。
本当なら、俺みたいなクズなんて、一瞬で死んでいるはずだ。
それが一瞬で死ななかったのは、炎無効のせいで、トンネル内の空気が一度冷えてしまったからだ。
落ち着け。冷えてしまった空気が自然と温まっていくまでには、タイムラグがある。
そのほんの僅かなタイムラグの間にさえ、『絶望』と『絶望』が詰まっている。
俺は遠くから飛竜のツメに手をかざし、念じた。
【スキル石(L)、アンロック】
もう一度、アトモスフィア機能を発動。
頼りない、青白い薄い膜が、周囲に展開された。
このアトモスフィア機能がいつまで持つか分からない。
ライフゲージはもう残り3割しか残っていない。
それでも減少は少しばかり遅くなった。
熱気で頭がガンガンする。すでに熱中症になっている気がする。
すぐ目の前にあるツメまで這っていく。1分にも満たなかっただろうが、俺にとっては無限に近い時間に感じられた。
力を失い、仲間を失い、絶望して、じわじわと苦しみながら死んでいく。
そんな死に方を俺ははじめて幸運だと思った。
それは決して不幸ではない。『絶望』など存在しない。
他の勇者達が『絶望』する、そのほんの僅かなタイムラグの間にさえ、俺は『希望』を見いだせる。
掴もうとする端からどす黒い『絶望』に転化していく、せっかちな『希望』。
いまの俺はそんな『希望』にも『絶望』にも、興味はなかった。
はじめて知った、ただひたすら前に進む力、これが勇気という奴なのか。
ただひたすら、地面を這って、転がっていったツメを、ようやく握りしめた。
はたして、間に合ったのか。間に合わなかったのか。
俺は高速でメニューを開くと、召喚言語の項目から、【ストーム・ブリンガー】の項目を呼び出した。
名称なんて今さら気にしている場合じゃない。もういちいち書き換える必要もない。【ストーム】の項目を【エア】に切り替えて、そのまま発動してやる。
「ストーム・ブリンガーッ!」
いくぶん呼吸の楽になった俺は、叫んだ。そのまま仰向けになった状態から、ダッシュ機能が発動される。
今まで眠っていたように静かだった飛竜のツメが、いきなりぶわっと浮かびあがる。
武器に引っ張り起こされて、俺はようやく二本の足で立ち上がった。
足がぐらつく。それでも俺は目を血走らせて敵を見据える。
ビヒーモスの白い背中が火を噴く前に、俺はそのまま崖から飛んだ。
何度も練習して、これだけは得意となったホバリング機能で、俺はトンネルを横断。
そのままビヒーモスの柔らかい頭の上に飛び移ることに成功した。
そのとき、空気が急にひやりとした気がした。
風が冷たい。
どうやら外の空気が入ってきているのだ。
触れればダメージを食らうはずのビヒーモスの皮膚は、おかげでまだほんの一部が冷めていた。
ビヒーモスのライフゲージは既に、髪の毛一本ほどしか残されていなかった。
今の俺のHPよりも細い、ほとんどあるかないかだ。
その髪の毛一本を消さない限り、こいつは止まらない。
両手を振り回し、死にものぐるいで、真っ直ぐに地下から逃げだそうとするビヒーモス。
その先に、煌々と光り輝く洞窟の出口があった。
そこにあるのは、希望でもなんでも無い、ただ星が冷たく光って、雪が白く覆っている絶望の世界が広がっているだけだ。
ビヒーモスは命を振り絞って、地上に戻ろうとしている。
地上にいる仲間達に、『希望』を与えるために。
地上にいるのは、残り5匹となったこいつの家族だ。
こいつらも、この絶望の世界に召喚された犠牲者にすぎない。
あるいは、こいつがあの5匹を生んだ母親なのかもしれない。
腹を空かせた子供のために、危険を冒して餌をあさっていたのかもしれない。
この絶望の世界で、僅かでも生き残る可能性があることを、示すために。
自爆までして、洞窟の奥から脱出しようとしている。
それでも、俺は剣を振りかざした。
頭の一点に真っ直ぐ向けて、小さく息を吐く。
そんな『希望』、この俺が打ち砕いてやる。
悪いが、お前はゲームの的だ、ビヒーモス。
真っ直ぐ、渾身の力を込めて、ライフゲージを全て燃焼させるように、振り下ろした。
鋭いツメの一撃が、剥き出しになった柔らかい皮膚を突き破り、身を抉って、深く食い込んでいく。
ビヒーモスが低く呻いた。何か喋った気がした。
ダメージは表示されない。
そう言えば、【攻撃】をするのを忘れていたが、そんなもの今はどうでもよかった。
俺は深く、もっと深く、そのツメを押し込んだ。
ツメを引き抜くと、オイルのような黒い血液が噴き出した。
出口に向かって前進していたビヒーモスは、がっくりと膝をついて、ぴたりと動かなくなった。
背筋を伸ばしたまま、そのまま放心したみたいに、遥か遠くの異世界に思いを馳せるように、ただぼんやり遠くを見ている。
真っ直ぐな体勢を保っていた奇跡の数瞬は、やがて終わる。
やがて体を支える力が抜け、ビヒーモスはそのまま横様に倒れた。巨大な3本のライフゲージは、ポリゴンの塊になって消滅した。
凄まじい地鳴りが響いて、洞窟は激しく揺さぶられていた。
地上に放り出された俺は、ごろごろ転がっていった。
振動を全身に感じながら、そのまま仰向けになっていた。
もうHP1も残っていないような気がする。
最悪の気分なのに、俺はまたしても死ななかった。
まったく、運が悪い。
俺は笑った、力なく笑ったのだ。
ビヒーモスは横倒れになったまま、動かない。
自重で肺の潰れた鯨のように呻いている。
しぶとく息を続けていたが、やがてそのまま目の光を失い、静かに息を引き取った。
どこからともなく、ラッパの音が聞こえてくる。
勝利宣言のファンファーレが鳴っているらしかった。
やっぱりこの世界は俺の知っているRPGそっくりで笑えた。
それは戦いの長さを示すように、延々と響いていた。
ちょうど坂のようになっていたので見下ろすと、他の勇者達はそれぞれ武器を掲げたり、静かに収めたり、思い思いの勝利ポーズを取っている。
まだ油断無くビヒーモスを眺めている奴もいたし、イスラム教徒みたいにその場に跪いて、とつぜん神に祈り出す奴もいた。勇者アリスは、みっともなく号泣していた。お前よくこの世界で生きていくとか言い出せたな。
俺は結局、どんなポーズを取る体力も無かった。くたくただった。
残りHP1となったライフゲージと、天井を眺めた。
けっきょく、俺の与えたダメージはゼロのまま。
長かったビヒーモス戦は、ようやく幕を閉じた。




