第一章 9 『戦えない三人』
ゼルディヴァンの声は、迫ってくる魔獣の位置を驚くほど正確に捉えていた。北斜面から四体、正面から三体以上、さらに退路として確保していた南西側にも複数。浮かぶ鏡が岩壁の向こうまで探り、どの方向から何体が近づいているのかを次々と告げているのに、それを迎え撃つ攻撃はどこからも飛ばなかった。
リゼルヴェートはそこで初めて、昨日から三人が繰り返していた《自分たちは戦闘向きではない》という言葉を、現実のものとして理解し始めた。
「正面の二体が先行してる。十二秒もない。ルシェルト、右の岩場は使えるか?」
「繋げる。ただし五人まとめて抜けるなら、今いる位置から三十歩は戻ってくれ。そこなら昨日まで使われてた旧道に接続できる」
「北側は捨てるわ。正面と北を同時に警戒したまま進めば移動速度が落ちる。南西を塞いでいる数を確認して、薄いならそこを抜く」
三人の判断には迷いがなかった。ゼルディヴァンの周囲では複数の鏡が絶えず向きを変え、死角へ入った魔獣の動きまで拾っている。ルシェルトは走りながら地面へ淡い光を伸ばし、今まで通った道と周辺の旧道を繋ぎ直し、イェルシェリナは二人から上がる情報を聞くたびに、残す選択肢と捨てる選択肢を即座に分けていった。
誰も慌ててはいない。それなのに、どれだけ正確に動いても魔獣の数そのものは減らなかった。
「右後方、一体来る!」
ゼルディヴァンの警告に合わせて全員が左へ寄ると、直後に黒い獣影が飛び込み、つい先ほどまでリゼルヴェートがいた場所を鋭い爪で抉った。
人の腰ほどまである四足の魔獣だった。黒褐色の毛の間から硬い棘が何本も突き出し、大きく裂けた口には黄ばんだ牙が並んでいる。地面へ着地した魔獣がこちらへ向き直るより早く、イェルシェリナは仲間の位置と開いた道を見比べた。
「全員、このまま南西へ抜ける。ゼルディヴァンは後方確認、ルシェルトは退路維持。リゼルヴェートとアシェラは私たちから離れない。それでいい?」
「問題ない」
「俺もそれでいける」
「うん、分かった」
全員の返事が揃った直後、イェルシェリナの周囲へ細い光の輪が浮かび、互いの間をなぞるように一度だけ淡く輝いた。
走りながらそれを見たリゼルヴェートが、すぐにイェルシェリナへ顔を向ける。
「今のも真律?」
「ええ。《誓環律》っていうの。互いに納得して決めた約束や条件を、情報として結びつけて確認できる。相手を無理やり従わせるような力じゃないから、今は私たちが何をすると決めたのか整理しているだけよ」
「じゃあ、さっきみんなが返事したから光ったんだ」
「大体そんな理解でいいわ。詳しい話は逃げ切ってからにしましょう」
「うん、それがいいと思う!」
その返事とほぼ同時に、ゼルディヴァンの鏡の一枚が鋭く向きを変えた。
「左前方にも一体。まだ距離はあるが、このままだと南西へ出る前に交差する」
「ルシェルト、別経路は?」
「二つある。左は狭すぎるから五人じゃ無理だ。右なら通れるけど、岩壁沿いに回る分だけ少し距離が伸びる」
「右を使うわ。正面で一体と接触するより安全」
指示を受けたルシェルトがすぐに進路を変え、地面を走る淡い光も右側の細い道へ折れていく。リゼルヴェートもその後を追いながら、三人の動きを見ていた。
昨日までなら、戦えないと言われても実感できなかった。ゼルディヴァンは誰より早く敵を見つけ、イェルシェリナはその情報から迷わず進む道を選び、ルシェルトは普通ならただの古道にしか見えない道を全員が逃げられる経路として繋ぎ直している。
三人とも、何をすればいいのか分からず右往左往しているわけではない。むしろ、敵がどこにいるかも、どこへ行けば避けられるかも、誰が何をするべきかも、ほとんど迷わず分かっている。
それでも、目の前に出てきた魔獣を力ずくで押し退けることだけができなかった。
「前、二体!」
ゼルディヴァンの声と同時に、岩壁の隙間から二頭の魔獣が飛び出した。ルシェルトは足を止めず右側へ大きく進路を変え、イェルシェリナもほぼ同時に全員を同じ方向へ寄せる。
一頭目の突進はそれで避けられたが、二頭目は地面を蹴り、すぐに追ってきた。
「三歩進んでから右へ。左側から噛みに来る」
ゼルディヴァンの指示に従って動くと、直後に背後で牙が空を噛む音が響いた。
敵の動きさえ読めれば避けられる。次の一撃も、その次も、三人の判断に従っていれば逃げ続けることはできた。
けれど、避けただけでは魔獣そのものは残り続ける。一体をかわすたびに別の一体が近づき、道を変えれば今度は別方向から回り込まれる。倒して数を減らせない以上、いくら正確に避け続けても状況は少しずつ悪くなっていった。
リゼルヴェートは走りながら、三人が最初から複数の退路を確保していた理由をようやく理解した。慎重すぎたのではなく、敵を押し返せない以上、逃げ切るためには最初から道を残しておく必要があったのだ。
「後方六体。北側の四体のうち二体も合流した。前方は今のところ一体だけだ」
「なら前を抜けるわ。倒す必要はないから、正面の一体を避けてそのまま道を繋いで」
「もうやってる。この先を抜ければ、最初に確保した旧道へ戻れる」
ルシェルトの足元を淡い光が走り、前方の曲がり道へ伸びていく。
そこまで行けば包囲の外へ出られる。リゼルヴェートにも、それは分かった。
だからこそ、三人が魔獣を倒そうとしないことにも、もう違和感はなかった。無理に戦わず、自分たちが得意なことを全部使って全員を安全な場所まで連れていく。それが今の三人にとって一番確実な戦い方だった。
前方から一体の魔獣が姿を現すと、ゼルディヴァンの鏡がすぐにその動きを追った。
「右脚を庇ってる。直進してから左へ跳ぶ可能性が高い。右側を抜ければいい」
「聞いたわね。そのまま右へ!」
イェルシェリナの声に従い、ルシェルトが先頭で右へ寄る。直後に魔獣が飛び込んだが、その身体は予測通り左へ流れ、その脇をルシェルト、イェルシェリナ、リゼルヴェート、アシェラが一気に抜けた。
最後尾のゼルディヴァンも一歩遅れて走り抜け、道が開く。
「後ろ、距離が縮んでる。速度を上げろ!」
警告を受け、全員がさらに走った。
岩壁沿いの細い道を抜ければ、ルシェルトが最初に確保した旧道へ戻れる。そこから王都側の街道まで繋がれば、群れを振り切れる可能性は高い。
先頭のルシェルトが曲がり角へ差しかかった、その瞬間だった。
ゼルディヴァンの鏡が鋭く向きを変える。
「ルシェルト、止まれ! 右の岩陰!」
ほぼ同時にイェルシェリナも危険に気づき、右側へ顔を向けた。
「下がって!」
二人の声が重なるより早く、岩陰から一頭の魔獣が飛び出した。
それまでの足音に紛れていたのか、鏡の死角へ伏せていたのかはリゼルヴェートには分からない。ただ、飛び出した魔獣とルシェルトとの距離があまりにも近く、彼が気づいて身体を捻っても避け切れないことだけは一目で分かった。
ゼルディヴァンは危険を察して警告し、イェルシェリナもほぼ同時に気づいていた。それでも二人ともルシェルトとの間に距離があり、今から割り込んでは間に合わない。
魔獣が大きく口を開き、並んだ牙がルシェルトの肩へ向かう。
その光景を認識した瞬間には、リゼルヴェートの身体はすでに動いていた。助けなければならないと頭の中で言葉にするより先に地面を蹴り、ルシェルトと魔獣との間へ向かって一気に距離を詰める。
牙が届く、その寸前。
リゼルヴェートは魔獣へ向かって手を伸ばした。




