第一章 8 『報告と足跡が合わない』
報告書に記されていた目撃数は三体だった。
だが、旧採石路の乾いた地面へ残された痕跡を前に、ゼルディヴァンはその数字を早々に切り捨てた。岩肌の間を抜ける古い搬出路には、大きさも向きも異なる爪痕が幾重にも重なっている。一部は風や古い往来で崩れていたが、それを除外しても三体では済まず、同じ個体が何度も行き来した可能性まで考慮してなお、十を超える魔獣がこの周辺を動いていると見る方が自然だった。
「ここで止まれ。この先はそのまま歩かない方がいい。報告では三体だったが、残っている足跡の数がまるで合ってない」
ゼルディヴァンが告げると、先を歩いていたイェルシェリナとルシェルトもすぐに足を止めた。リゼルヴェートだけが足元を見ながら一歩進みかけたものの、隣にいたアシェラに袖を引かれて戻ってくる。
「そんなに多いの? 私には、いっぱい跡があることくらいしか分からないけど」
「今はそれで十分だ。正確な個体数までは出せない。同じ奴が何度か通っている可能性もあるし、古い跡も混じっている。ただ、三体だけという前提で進むのは危険だ」
断定できないことまで断定する必要はない。足跡の保存状態にはばらつきがあり、いつ付いたものかも一目では分からない。それでも、官庁から渡された数字と現場の状況が一致していないという一点だけは、すでに疑う余地がなかった。
ゼルディヴァンは右手を軽く上げた。
空気の中へ薄い光が走り、掌ほどの魔法鏡が一枚、二枚、三枚と浮かび上がる。磨かれた銀面のような表面には周囲の景色が映り、それぞれが別方向へ向きを変えると、正面の採石路、北側の斜面、崩れた岩場を同時に映し始めた。
リゼルヴェートがすぐに鏡を目で追う。
「それも昨日見た魔法と同じもの?」
「普通の魔法とは少し違う。《真律》っていう、その人だけが持つ固有の力だ。全員が持っているわけじゃないし、できることも人によって違う。俺の場合は、こうして複数の鏡で別々の場所を同時に観測できる」
「一人に一つだけの特別な力、みたいなもの?」
「今はそのくらいの理解でいい。細かい話は現地で長くする内容じゃない」
それだけ聞いて、リゼルヴェートは素直に頷いた。
ゼルディヴァン自身も、今ここで真律という仕組みそのものを講義するつもりはなかった。必要なのは名称を覚えさせることではなく、この鏡が何をするためのものなのか理解してもらうことだ。
三枚の鏡から入る景色を一枚ずつ眺める必要はない。位置関係、動いたもの、足跡の途切れ方、視界を遮る岩、進入できる経路と死角。それぞれの情報が頭の中で並列に整理され、直接目で追うより広い範囲が一つの地図として組み上がっていく。
正面の旧搬出路には新しい爪痕が五本。北側斜面では、低木の枝が外側ではなく斜面の内側から押し折られている。西の岩棚にはまだ乾き切っていない泥が付着しているが、この周辺では昨日から雨は降っていない。
「北斜面にも通過した跡がある。正面だけを見て進むのは危険だな。少なくとも一体以上は北側からこの周辺へ入ってきている」
「今の段階で、どこまで広がっていると思う?」
イェルシェリナが地面ではなくゼルディヴァンを見る。
「判断材料が足りない。旧搬出路だけに集まっているとは考えない方がいいが、範囲までは出せない」
「なら、正面を調べて終わりという任務ではなさそうね」
「少なくとも、そのつもりで深く入るのはやめた方がいい」
イェルシェリナは短く頷き、手元の記録へ新たな痕跡を書き足した。
その間にルシェルトは道の端へ移動し、しゃがみ込んで地面へ手を触れていた。指先から淡い光が伸び、彼らがここまで歩いてきた道へ沿うように細い光跡が走っていく。
昨日、王都へ向かう途中でもリゼルヴェートが見た現象だった。
「ルシェルトのも真律なの?」
「そうだよ。《道界標》っていう。一度自分で通った道を覚えておいて、あとから安全な移動経路として繋ぎ直せる。何もない場所へ飛べるわけじゃないけど、知ってる道なら移動や退路の確保には使える」
「だから昨日、森から王都までの道を出せたんだ」
「そういうこと。今回は帰り道を残してる。ここから王都側へ戻る経路も、途中で分かれられる場所も確認済みだ」
ルシェルトはそう言いながら、光の流れをもう一度確かめた。
「ただ、この先で北側へ回り込むなら経路を増やした方がいい。来た道一本だけ残して安心する状況じゃなさそうだ」
「同意する。退路は一方向に絞らない方がいい」
ゼルディヴァンが答えると、ルシェルトはすぐ作業へ戻った。
リゼルヴェートは、浮かぶ鏡と地面に走る淡い光を交互に見ていた。
「みんな、すごく慣れてるね。ゼルディヴァンは足跡を見ただけで周りを調べ始めるし、ルシェルトは帰る道を先に確保するし、イェルシェリナも何を調べるかすぐ決めてる」
「こういう場所で、何も考えずに奥へ進む方が問題だ」
「でも、まだ魔獣そのものは見えてないよ?」
「見えてから準備を始めるんじゃ遅い」
リゼルヴェートは少し不思議そうな顔をした。
ゼルディヴァンには、その反応の理由がまだ分からなかった。危険を軽く見ているようには見えない。昨日の話では、この世界そのものをほとんど知らないらしいから、単純に魔獣がどの程度危険なのか実感がない可能性もある。
「俺たちは戦闘専門じゃない。数体程度なら対応できることもあるが、群れを正面から押し切れるほど強くはない。だから、危険になった時に逃げられる道を先に作っておく」
「三人とも魔法は使えるのに?」
「魔法が使えることと、強い魔獣の群れを倒せることは別だ」
リゼルヴェートはそこで初めて、三人を順番に見た。
「だから昨日も、任務に行くなら危ないって言ってたんだ」
「そういうことだ。何かあった時は指示を聞け。俺たちは勝てるかどうか分からなくなってからじゃなく、その前に撤退を決める」
「そんなに早く逃げるの?」
「逃げられなくなってから決めるよりいい」
「それは……そうかも」
完全に納得した顔ではなかったが、少なくとも意味は通じたらしい。
アシェラはリゼルヴェートの隣に立ったまま何も口を挟まない。彼女が何を基準に危険を測っているのかは、ゼルディヴァンにはまだ判断材料がなかった。
調査は、それ以上深く入りすぎないよう範囲を区切って続けた。
ゼルディヴァンが鏡を先へ送り、ルシェルトが退路を維持する。イェルシェリナは発見した痕跡の位置と種類を記録し、官庁から渡された目撃地点と照合していく。誰か一人が全てを処理するのではなく、それぞれが必要な情報だけを拾うことで、調査速度は落ちずに済んだ。
三十分も経たないうちに、報告書の不足はさらに明確になった。
南側の岩陰には新しい獣毛が残り、北斜面には少なくとも二種類以上の足跡がある。正面奥では、複数の個体が同じ方向へまとまって進んだ痕跡まで見つかった。
「単発の目撃じゃないな」
ゼルディヴァンは一枚の鏡へ映った地面を確認しながら言った。
「群れがいる?」
「可能性は高い。ただし、同じ種類が一つの群れを作っているのか、複数種類が同じ場所に集まっているのかまでは分からない。ここへ集まった理由も不明だ」
「報告の数字が間違っていた理由も?」
「それもまだ分からない。現場で数え違えたのか、報告の途中で削られたのか、単純に後から増えたのか。今ある情報だけで原因まで決めるのは早い」
分からないものは分からないまま残す。
現地調査は空白を想像で埋めるためではなく、事実を増やすために来ている。
ゼルディヴァンが新たな鏡を一枚北側へ送り込んだ、その時だった。
鏡面の端を黒い影が横切る。
一体。
その後ろから二体目。
さらに低い姿勢で斜面を下る影が続き、少し遅れてもう一つ別の動きが入る。
ゼルディヴァンは即座に鏡の向きを変えた。
「北から四体来る。全員、少し下がれ」
イェルシェリナがすぐに手を上げ、全員を後方へ寄せる。
ほぼ同時に、今度は正面の岩陰から低い唸り声が響いた。
ルシェルトが身体をそちらへ向ける。
「正面にもいる。姿はまだ見えない」
「今見る」
ゼルディヴァンは二枚の鏡を正面へ回した。
岩陰から一体。少し離れて二体目。その背後にも動く影があり、さらに鏡では捉えきれない位置から複数の足音が重なっている。
北側に四体。正面に三体以上。
報告書にあった三体という数字は、もう何の基準にもならなかった。
しかも一方向からまとまって現れたわけではない。複数方向に広がっていた個体が、こちらの存在へ気づいて動き始めている可能性が高い。
ゼルディヴァンは現在地と周囲の位置関係を頭の中で並べ直した。
北斜面。正面旧搬出路。西側岩棚。王都側への帰路。
調査目的は十分達成している。報告との差異も確認した。ここから戦闘してまで追加情報を拾う理由はない。
「調査は終了。撤退する。これ以上残る必要はない」
判断に迷いはなかった。
イェルシェリナもすぐに応じる。
「賛成。ルシェルト、確保している退路は?」
「南西側へ繋いである。来た道をそのまま戻るより短いし、途中で王都側の街道へ出られる」
「そこを使うわ。リゼルヴェート、アシェラも離れないで」
「分かった」
リゼルヴェートは素直に従った。
ゼルディヴァンは最後尾へ回り、鏡を後方に残したまま全員を移動させる。魔獣との距離はまだある。北側の群れが斜面を下り切る前に退路へ入れば、交戦せず抜けられる可能性が高い。
正面の三体もこちらへ向きを変えたが、追いつかれる距離ではない。
今なら間に合う。
その判断を組み立てた直後、先頭を走っていたルシェルトが急に足を止めた。
「待て。前に何かいる」
ゼルディヴァンもすぐに鏡を一枚前方へ送る。
だが、岩壁が視界を遮るより先に、その向こうから音が届いた。
獣の喉を震わせる、低く濁った唸り声だった。それが一つではなく、少しずつ位置を変えながら何重にも重なっている。
退路として確保していた道の先からも、別の魔獣たちがこちらへ近づいていた。




