第一章 7 『またノルシェリアか』
王国中央官庁の受付机を滑ってきた任務書は、イェルシェリナの手元できっちり止まった。
向かいに座る担当官は、その瞬間まで一度も彼女と目を合わせていない。書面を渡したことで自分の仕事は終わったと言わんばかりに、視線はすでに別の書類へ移っていた。
「昨日、うちへ届いたものと同じ案件ね。現地資料と、これまでに上がっている報告書も確認したいのだけれど」
「必要分は添付されています」
返事だけは丁寧だった。
イェルシェリナは任務書を開き、昨日すでに読んだ概要へもう一度目を通した。王都近郊にある旧採石路周辺で魔獣の目撃が増えているため、現地へ赴いて発生状況を確認し、必要な情報を持ち帰る。討伐そのものは義務ではなく、表面だけ見れば確かに小規模な調査任務だった。
問題は、その割に資料が薄すぎることだった。
「添付されているのは概要と簡単な地図だけよ。目撃地点ごとの件数も、過去数日の報告推移もない。調査対象が魔獣なら、その程度は事前に確認できるでしょう?」
「小規模案件ですので、現地で確認していただければ十分かと」
「その現地確認をするための資料を求めているのだけれど」
「こちらからお渡しできるものは以上です」
担当官の声色は変わらない。
拒絶ではない。規則違反とも言われていない。ただ、追加の手間をかける気がないということだけは明確だった。
任務書に記載された報酬額へ視線を落とせば、そちらも高くはない。旧採石路までの移動時間と現地調査に必要な手間を考えれば、積極的に欲しがる案件ではなかった。
「この条件で、まだ受領先が決まっていなかったのね」
「現在、ノルシェリア派へ割り当てられています」
「それは見れば分かるわ。聞いているのは、それまで誰も受けなかったのかということよ」
担当官は少しだけ間を置いた。
「他の受領先との調整結果です」
それ以上の説明は出なかった。
誰かが拒否した記録をわざわざ口にする気はないらしい。ただ、実入りの少ない調査案件が最後まで残り、最終的にノルシェリア派へ回ってきたという流れだけなら、それで十分読めた。
イェルシェリナは任務書を閉じた。
「受領手続きは少し待って。資料をもう一度確認するわ」
「ご自由にどうぞ」
受付を離れると、少し離れた待合でゼルディヴァンとルシェルトが待っていた。リゼルヴェートとアシェラも一緒にいる。
リゼルヴェートは昨日買ったばかりの服を身につけ、昨日とは見違えるほど王都の景色へ馴染んでいる。もっとも、官庁の高い天井や壁際を流れる案内表示へ何度も視線を向けているあたり、中身まで馴染んだわけではなさそうだった。
「どうだった?」
ルシェルトに聞かれ、イェルシェリナは任務書をゼルディヴァンへ渡した。
「予想通りよ。実入りは少ない、事前資料は最低限、追加確認を頼んでも現地で見ろの一点張り。他が欲しがらなかった案件を最後にうちへ回したと考えるのが自然ね」
ゼルディヴァンは返事をせず、その場で文面を読み始めた。
彼が内容を追っている間に、リゼルヴェートが横から任務書を覗こうとして少し身体を傾ける。
「昨日届いた仕事って、魔獣を倒しに行く仕事なの?」
「今回は違うわ。主目的は調査。王都の近くにある古い採石路で魔獣を見たという報告が増えているから、実際にどの程度いるのか確認して戻る」
「見つけても倒さなくていいの?」
「危険なら対処する必要はあるけれど、全部倒してこいという任務ではないわ」
「そっか」
リゼルヴェートは素直に頷いた。
昨日まで魔法の存在自体に目を輝かせていた少女に、この国の任務制度まで一度に説明しても意味はない。今は自分たちが何をしに行くのか分かれば十分だった。
ゼルディヴァンが任務書から顔を上げる。
「書面だけなら低規模だ。調査範囲も広くない。ただ、報告の根拠がほとんど載ってない」
「そこが気になるのよ」
「だからって受けない選択肢はあるのか?」
ルシェルトの問いに、イェルシェリナはすぐには答えなかった。
断ること自体はできる。だが、今のノルシェリア派が公的任務を選り好みできる立場ではないことも事実だった。実入りが悪いから断ったと見られれば、それだけで次に回ってくる仕事の幅はさらに狭くなる。
その程度の不利益なら、一度だけなら無視できる。積み重なるから問題になる。
「まだ正式受領はしていないわ。けれど、よほど危険な情報が出ない限りは受けるつもりよ」
そう答えたところで、人の流れの向こうから一人の女性職員が近づいてきた。
淡い茶色の髪を片側で編み、腕には何枚かの書類を抱えている。中央官庁で何度か見かけたことのある顔だった。
「クロヴェリア代表」
「リュシェリアさん」
リュシェリア・フェルディナは一度だけ周囲を確認したあと、声を少し落とした。
「その任務、もう受領されましたか?」
「まだよ。今から正式に手続きをするか決めるところ」
「でしたら、少しだけこちらへ」
露骨に人目を避ける動きではない。それでも、受付前で話したくない内容なのだということは分かった。
イェルシェリナはゼルディヴァンたちへ視線を向け、そのまま全員で廊下脇の人通りが少ない場所へ移動した。
リュシェリアは腕に抱えていた書類の間から一枚だけ抜き出した。
「正式な写しではありません。ですから、これを見たことにはしないでください」
「そこまでして私たちに?」
「概要だけで現地へ行かせる方が危ないと思ったので」
差し出された紙には、任務書より細かな数字が並んでいた。
日付ごとの目撃報告。場所。報告者の区分。簡単な現地確認の記録。
イェルシェリナは上から順に目を通し、すぐに一つ引っかかった。
「任務書に書かれている目撃件数より多いわね」
「はい。概要では整理された数字だけが使われています。でも、現地から上がってきた原資料では件数が一致していません」
「単純な重複報告の可能性は?」
「処理済みとされているものもあります。でも、それだけでは説明しきれないと思います」
リュシェリアの言葉は慎重だった。
危険だと断定しているわけではない。だからこそ、余計な主観を足さずに伝えようとしているのが分かる。
「どうしてこれを教えてくれたの?」
「私は、この差を確認しないまま小規模案件として処理するのはよくないと思っただけです。どこへ回る案件だったとしても」
ノルシェリア派だから助ける、と言ったわけではなかった。
その距離感の方がイェルシェリナには信用できた。
「ありがとう。見なかったことにするわ」
「お願いします」
リュシェリアは小さく頭を下げ、それ以上こちらへ残らず元の廊下へ戻っていった。
その背中が人の流れへ消えてから、ゼルディヴァンが受け取った原資料へ視線を落とす。
「少なくとも、最初の任務書だけで判断するべきじゃないな」
「ええ。でも、この程度なら受領を拒否する理由にもならない」
イェルシェリナはそう判断した。
むしろ今ここで、数字が合わないから危険かもしれないと拒否すれば、結果が何もなかった場合に《小規模任務すら避けた》という事実だけが残る。今のノルシェリア派に、その評価を積み上げる余裕はなかった。
「受けるわ。追加資料の件は伏せたまま、現地で数字を確認する」
「妥当だな」
「俺は移動と必要物資を見直す。調査だけのつもりで軽く行くのはやめた方がよさそうだ」
ルシェルトもすぐに役割へ意識を切り替えた。
そこで、黙って話を聞いていたリゼルヴェートが口を開いた。
「私も行っていい?」
三人の視線が集まる。
「遊びに行くわけじゃないのよ」
「分かってる。魔獣がいるかもしれない場所なんだよね」
「いるかもしれない、ではなく、少なくとも目撃報告はあるわ。現地へ行けば遭遇する可能性は十分ある。王都の中を歩くのとは違うし、何が起きるか分からない」
危険を軽く伝えるつもりはなかった。
リゼルヴェートがどれほど戦えるのか、イェルシェリナたちはまだ知らない。本人もこれまで戦闘について何も話していない以上、同行させればこちらが守る前提で考える必要がある。
それでもリゼルヴェートは迷わなかった。
「それでも行きたい。私、ここに置いてもらってるのに、三人が何をしてるのか何も知らないままなのは嫌だから」
「役に立たなかったらどうする?」
「その時は、言われた通りにする。勝手に動かない」
少し前まで王都の街灯に目を奪われていた少女と同じとは思えないほど、返事はまっすぐだった。
イェルシェリナはしばらく彼女を見たあと、止める理由を探すのをやめた。
「分かったわ。本人が望むなら同行は認める。ただし、危険だと判断したら私たちの指示に従うこと。それだけは約束して」
「うん。約束する」
横にいたアシェラも特に反対しなかった。
正式な受領手続きを終えて拠点へ戻ったあと、ゼルディヴァンは任務書とリュシェリアから見せられた内容を書き留めた記録を机へ並べた。
イェルシェリナたちが出発準備について話している間も、彼だけは数字を何度も見比べている。
やがて一箇所へ指を置いた。
「目撃数と足跡数が合ってない」
その指摘を受けて改めて資料を見直すと、単に報告件数が多いというだけでは済まない食い違いが、数字の並びの中へ残っていた。
小規模な調査任務として回ってきたはずの案件は、出発する前からすでに一つ、説明のつかない部分を抱えていた。




