第一章 6 『異世界の王都』
王都へ出て最初にリゼルヴェートの足を止めたのは、人でも建物でもなかった。
通りの上を、両手で抱えられるほどの木箱が三つ浮かんでいる。人の頭より少し高い位置を一定の間隔で進み、曲がり角へ差しかかると、先頭の箱から順番に滑らかに向きを変えていった。紐で吊られている様子もなければ、下から誰かが支えているわけでもない。
「……荷物が浮いてる。誰も持ってないのに、そのまま進んでるんだけど」
「持たなくても運べるようにしてるんだから、そりゃ浮いて進むだろ」
隣を歩くルシェルトは、それだけ答えて特に足を緩めなかった。
リゼルヴェートが木箱の行方を目で追っていると、今度は通り脇に並ぶ細い柱の一つへ淡い光が灯った。まだ昼間なので目立たないが、近くに火を点けた人間はいない。それどころか、その少し先の柱にも同じように光が宿り、通りの奥まで一定の間隔で続いている。
「あの光も魔法なの?」
「基礎術式よ。暗くなれば必要な分だけ明るくなるように組まれているの。さっきの荷物も、仕組みは違うけれど生活のために使われている術式という意味では同じようなものね」
少し先を歩いていたイェルシェリナが振り返り、リゼルヴェートの視線の先を確認してから答えた。
昨日も魔法が生活の中で使われているところは見た。それでも、改めて明るい時間の王都を歩いてみると、見慣れないものは思っていた以上に多い。
店先の看板へ店員が指を触れると、書かれていた文字の一部だけが柔らかく光った。建物の壁際では細い管から水が流れ、荷車の車輪に刻まれた模様が淡く輝いている。どれもリゼルヴェートには立ち止まって見たくなるものばかりなのに、周囲を行き交う人々は誰一人として気に留めていなかった。
「澪桜、前」
アシェラに言われて顔を戻すと、すぐ目の前にルシェルトの背中があった。慌てて足を止めれば、彼もこちらを振り返る。
「昨日も言ったけど、歩きながら全部見るのはやめろよ。王都に来て最初の怪我がよそ見でした、なんて笑えないからな」
「でも、本当にすごいんだよ。昨日は余裕なくてちゃんと見られなかったけど、どこを見ても魔法があるんだもん」
「驚くのは分かる。だからせめて立ち止まってから見ろ」
「気をつけます」
「その返事、昨日も聞いた気がする」
ルシェルトに呆れられ、リゼルヴェートは今度こそ前を見て歩くことにした。
今日の目的は王都見物ではない。まずは服を揃えることになっている。
森で目を覚ました時から着ていた簡素な白い衣服しか持っておらず、その上へ昨日からルシェルトの上着を借りたままだ。朝食の席でイェルシェリナから、この格好のまま王都を歩かせるわけにはいかないと言われ、そのまま全員で買い物へ出てきた。
案内された店へ入ると、壁際から奥の棚まで色も形も違う衣服が並んでいた。見慣れた日本の服とは仕立てが違うものも多いが、何を着るためのものなのかは見れば大体分かる。
「好きなのを選んでいいの?」
「ある程度はね。動きにくすぎるものと、必要以上に高いものは却下するけれど」
「分かった!」
「その返事だけは今日一番元気ね」
イェルシェリナの言葉を聞きながら店内を見回し、リゼルヴェートはすぐに一着の短い上着へ目を留めた。淡い桜色で、今の髪にもよく合いそうだった。
その近くには白い襟付きのブラウスがあり、少し離れた棚には白桃色から淡い藤色へ変わる柔らかな色合いのプリーツスカートが並んでいる。鏡の前で順番に合わせてみると、髪の毛先に混じる色とも自然に馴染んだ。
「これ、かわいい。こっちのスカートも合いそう」
「なら一度合わせてみたら? 靴とベルトも必要でしょうし、全体を見てから決めた方がいいわ」
イェルシェリナに勧められ、細い銀金色のベルトと、白い短靴下、淡い色のストラップ靴まで揃えていく。
着替えて鏡の前へ立つと、昨日までとはまるで違う少女がそこに映っていた。白い襟付きブラウスに淡い桜色の短い上着、白桃色から淡い藤色へ移るプリーツスカート。白い短靴下と淡いストラップ靴まで合わせれば、少なくとも森で目を覚ました時の《何も持っていない少女》には見えなくなっている。
髪も身体も、日本にいた頃の天城澪桜とは違う。それでも鏡の中の少女が自分だという感覚には、昨日ほどの戸惑いはなかった。
「これがいい。全部この組み合わせにしたい」
「決まるの早いな」
店の端で待っていたルシェルトが言うと、ゼルディヴァンも一度だけ鏡越しにこちらを見た。
「本人が気に入っていて、動くのに支障がないなら問題ないだろ」
「じゃあ、これにする!」
着替えを終えて店を出たところで、リゼルヴェートはようやく借りていた上着をルシェルトへ返した。
「ありがとう。昨日からずっと借りっぱなしだったけど、本当に助かったよ」
「二日程度で大げさだな。もう寒くないならそれでいい」
礼も軽く受け取られて、それで話は終わった。そういうところも、少しずつルシェルトらしいと思えるようになってきた。
買い物は服だけでは終わらなかった。生活に必要な細かな物を揃えながら王都を歩き、その途中で、昨日話題に出た身元や行政上の登録について確認するための窓口にも立ち寄ることになった。
そこで、それまでとは少し違う空気をリゼルヴェートは感じた。
最初のうち、受付の対応はごく普通だった。イェルシェリナが、身元を確認できない十六歳の少女を一時的に保護しており、登録方法を確認したいと伝えると、相手も必要事項を聞こうとしていた。
「現在の所属、または保護している団体は?」
「ノルシェリア派よ」
その名前が出た直後、受付にいた相手の手がわずかに止まった。
露骨に嫌そうな顔をしたわけではない。声を荒らげたわけでもない。ただ、すぐに進みそうだった話が急に鈍くなり、出しかけていた書類まで一度脇へ戻された。
「確認に時間がかかりますので、本日の手続きは難しいですね。後日改めてお越しください」
「正式な申請以前に、必要書類だけ確認したいのだけれど。それなら今でもできるでしょう?」
「担当者が席を外しておりますので」
「では、担当者が戻る時間だけでも教えてもらえる?」
「そちらもこちらでは分かりかねます」
イェルシェリナはしばらく相手を見ていたが、それ以上食い下がることはしなかった。
「分かったわ。また改める」
結局、必要なことをほとんど確認できないまま建物を出る。
リゼルヴェートは隣を歩くイェルシェリナの顔を見上げた。
「さっきの人、すごく忙しかったのかな。最初は普通に話せそうだったのに、途中から急に難しくなった感じがしたけど」
「そういう日もあるわ」
返事はそれだけだった。
けれど、次に入った店でも似たことが起きた。
必要な日用品をまとめて揃え、支払いについてルシェルトが話を始めるまでは特に問題なかった。それがノルシェリア派の名義で処理すると分かった途端、それまで使えるように聞こえていた条件が狭くなり、信用を前提にした扱いはできないと言われた。
「最初の説明と話が変わってないか?」
「当店としては、確実にお支払いいただける形でお願いしております」
「払えないなんて一言も言ってないだろ。まあいい、今回はその場で払う」
ルシェルトはそれ以上揉めず、必要な分をそのまま支払った。
店を出たあとも、三人の誰かが腹を立てた様子はない。そのことが、リゼルヴェートにはかえって引っかかった。
「……こういうの、よくあるの?」
三人がこちらを見る。
「さっきの受付も、この店も、ノルシェリア派って分かったあとだけ少し対応が変わってたよね。私の勘違いじゃないと思うんだけど」
ゼルディヴァンは否定しなかった。
「珍しくはない。ノルシェリア派は、信用の高い集まりとは見られていないからな」
「毎回あんな感じなの?」
「全部が全部じゃないよ。普通に取引してくれる店もあるし、まともに対応してくれる相手もいる。ただ、後回しにしても問題ないと思われれば後へ回されるし、信用が必要な話なら条件を厳しくされることもある。俺たちにとっては、今さら驚くようなことでもない」
ルシェルトの説明には、怒りよりも慣れの方が強く滲んでいた。
それがリゼルヴェートには一番おかしく感じられた。
「嫌じゃないの?」
「嫌に決まってるでしょう」
イェルシェリナは迷わず答えた。
「でも、そこで怒鳴ったところで相手の信用が増えるわけじゃないし、必要な手続きや買い物が進むわけでもない。なら、今は通せる話を通す方が先よ」
それ以上の理由までは語られなかった。
リゼルヴェートも、今ここで全部聞くべきではない気がした。なぜノルシェリア派がそんな扱いを受けているのかはまだ分からない。それでも、三人が今日初めて同じ目に遭ったわけではないことだけは伝わってきた。
その後は大きな問題もなく買い物を終えた。
新しい服の裾が気になって何度か足元を確かめ、通りを流れる小型荷物へまた視線を奪われ、そのたびにルシェルトから前を見るよう注意される。朝よりは王都の光景にも少し慣れたものの、魔法が当たり前に混ざる街並みを見飽きるにはまだ時間がかかりそうだった。
拠点へ戻ったのは、それからしばらくしてだった。
「ただいま」
昨日来たばかりの場所なのに、扉を開けると自然にその言葉が出た。
誰かが中で待っているわけではない。それでも、森で何も分からないまま立っていた時とは違い、ここへ戻ってくること自体にはもう少しだけ馴染み始めている。
買ってきた荷物を置こうとしたルシェルトが、入口近くへ届いていた一通の封書に気づいた。
「イェルシェリナ、公的な封書が来てる」
受け取ったイェルシェリナが表面を確かめ、そのままゼルディヴァンへ渡す。
「任務書みたいね。内容を見て」
ゼルディヴァンは封を開き、中の文書へ目を通し始めた。
さっきまで買い物の荷物を整理していたルシェルトも手を止める。リゼルヴェートには書かれている内容までは分からないが、ゼルディヴァンの視線が何度か同じ箇所を往復したことで、単純な依頼ではないらしいことだけは分かった。
最後まで読み終えたゼルディヴァンは、文書を置かずにもう一度必要な部分を確かめた。
「……また、うちに回す案件じゃない」
その一言で、明るい買い物の続きを引きずっていた拠点の空気が変わった。
リゼルヴェートにはまだ任務の内容も、それがなぜノルシェリア派へ回されるべきではないのかも分からない。ただ、三人が普段通りに受け流せる仕事ではないことだけは、ゼルディヴァンの表情から十分に伝わってきた。




