第一章 5 『ここにいてもいい?』
目を開けた瞬間、リゼルヴェートはほんの一瞬だけ、自分の部屋で朝を迎えたのだと思った。
眠りから浮かび上がったばかりの意識には、昨日まで当たり前だった景色の方が強く残っていた。見慣れた天井があり、起きれば制服へ着替え、階下へ降りればいつもの朝が始まる。けれど視界がはっきりするにつれて、そこにあるのが知らない木目の天井だと分かり、身体を包む寝具の感触も、自室のものとはまるで違っていた。
その違いを認識した途端、昨日の出来事が一気に戻ってくる。
事故に遭ったこと。身体の感覚を失ったあと、白とも黒ともつかない場所でアシェラと出会ったこと。もう元の世界には戻れないと告げられ、それでも生きたいと答えたこと。そして《リゼルヴェート・アルシェノア》として森で目を覚まし、イェルシェリナたち三人に拾われたところまで、記憶は途切れることなく残っている。
寝台の上で身体を起こすと、肩から淡い桃色の髪がさらりと落ちた。朝になっても当然のように元の姿へ戻ってはいない。指先も声も、この身体も、昨日より少しだけ自分のものとして馴染んでいる気がした。
「……夢じゃなかったんだ」
「……夢なら、寝直す?」
すぐ近くから返事があり、リゼルヴェートは壁際へ顔を向けた。
アシェラが椅子に座っている。月白色の髪も、左右で色の違う瞳も昨日と変わらず、いつからそこにいたのか分からないほど静かだった。
「起きてたの?」
「……うん」
「いつから?」
「……ずっと」
「寝てないの?」
「……平気」
本人があまりにも当然のように答えるため、それ以上どう心配すればいいのか分からなかった。
寝台から降りると、昨日ルシェルトから借りた上着が近くへ置かれていた。簡素な白い服だけで朝の冷えた空気へ出る気にはなれず、ありがたく袖を通してから部屋を出る。
階下へ降りると、すでに三人とも起きていた。
ルシェルトは朝食を並べながら荷物まで確認し、ゼルディヴァンは卓上へ広げた紙を眺めている。イェルシェリナも何枚かの書類を手にしていたが、階段を降りてきたリゼルヴェートへ気づくと顔を上げた。
「おはよう。眠れた?」
「うん。思ってたよりぐっすり」
「昨日あれだけ色々あった割には元気そうね」
「疲れてたみたい。寝たらちょっとすっきりした」
「それなら何よりだ」
ルシェルトが食器を置きながら答える。
リゼルヴェートは空いている席へ座ろうとしたところで、隣までついてきたアシェラが先に椅子へ収まるのを見た。
「そこ私が座ろうとしてたんだけど」
「……別のある」
「あるけど」
「……澪桜、細かい」
その名前が出た瞬間、食卓の空気がわずかに変わった。
ルシェルトの手が止まり、ゼルディヴァンが紙から顔を上げる。イェルシェリナもアシェラではなく、リゼルヴェートへ視線を向けた。
「今、何て呼んだの?」
イェルシェリナに尋ねられ、リゼルヴェートは昨日まで三人の前でその名前を出していなかったことに気づいた。
「澪桜、って」
「あなたは昨日、リゼルヴェート・アルシェノアと名乗ったわよね」
「うん。それも私の名前で合ってるよ」
「じゃあ、澪桜は?」
説明しようとして、言葉に詰まった。
天城澪桜は日本で生きていた自分の名前だ。リゼルヴェート・アルシェノアは、この身体になってから自然に自分のものだと分かった名前。その二つがどちらも自分だという感覚はあるのに、そこへ死んだことや別世界から来たことまで含めなければ、まともな説明にはなりそうにない。
「アシェラだけは、私のことを澪桜って呼ぶの」
「理由は?」
ゼルディヴァンが聞く。
「ちゃんと説明しようとすると、昨日の森で話せなかったことから全部話さないといけなくなると思う」
「話せない?」
「話したくないっていうより……私もまだ整理できてないの。自分でも昨日から分からないことが多くて」
三人はすぐには何も言わなかった。
嘘をついているつもりはない。けれど、本当のことを全部話したところで信じてもらえるのかも分からなかった。別の世界で死んで、アシェラに会って、ここで新しい身体になったなどと初対面に近い相手へ伝えるには、リゼルヴェート自身の中でもまだ現実味が足りない。
イェルシェリナは少し考えてから、追及する代わりに書類を置いた。
「分かったわ。今すぐ無理に聞き出すつもりはない。ただ、名前が二つあることは覚えておく」
「ありがとう」
「でも、行政上どちらを使うかは後で決めないと駄目ね」
「そこにも関係するんだ……」
「むしろ大いに関係するわよ」
昨日までなら名前は呼ばれるためのものだった。それがこの世界では、何かを登録するだけでも考えなければならないらしい。
ルシェルトが朝食を並べ終え、リゼルヴェートも改めて席へついた。
「いただきます」
「昨日も言ってたな、それ」
「うん。食べる前に言うの」
「変わった習慣だな」
「私には普通なんだけど」
「お前の普通がどこまで通用するのか、だんだん不安になってきた」
ルシェルトの言葉に、リゼルヴェート自身も少しだけ同意した。王様が実在することにも、生活の中で魔法が使われていることにも驚いたばかりなのだから、おそらくこれからも似たことは何度もある。
食事が進み始めたところで、イェルシェリナが先ほどの書類を卓上へ戻した。
「今日のことだけど、先にあなたの今後について少し整理しておきたいわ」
「今後?」
「大げさな話じゃない。まず生活できる状態にする必要があるってことよ」
イェルシェリナは指を折る代わりに、必要なものを一つずつ口にした。
「身元を確認できるものがない。王都での登録もどうなっているか分からない。お金も持っていないし、衣服はその一着だけ。今後ここで生活するにしても、まず最低限そこをどうにかしないと動きようがないわ」
並べられると、自分の状況が改めてよく分かった。
昨日までは日本に家があり、家族がいて、学校にも自分の記録があった。ところが今のリゼルヴェートには、《リゼルヴェート・アルシェノア》という名前以外、自分が誰なのかをこの世界で証明できるものが何もない。
「身元が分かる物、本当に何も持ってないんだよな?」
ルシェルトに確認され、リゼルヴェートは白い服を見下ろした。
「何もないよ」
「金は?」
「ない」
「荷物も?」
「ない」
「昨日見たままだな」
ルシェルトは困ったように笑ったが、責める様子はなかった。
ゼルディヴァンは卓上の紙へ視線を戻しながら、昨日までに分かっていることを確認していく。
「名前はリゼルヴェート・アルシェノア。年齢は十六。本人の申告以外に身元を裏づけるものはなし。近隣に家族や知人もいない。森へ来た経緯も今のところ説明できない」
「うん」
「それに、さっき新しく《澪桜》という別名も出た」
「……うん」
「分からないことは増えたが、急いで結論を出す必要もない」
ゼルディヴァンの言い方は淡々としている。昨日と同じく、疑問を疑問のまま整理しているだけらしく、そこに責めるような響きはなかった。
イェルシェリナも頷く。
「だから、事情が分かるまではここにいて構わないわ」
その言葉を聞いて、リゼルヴェートはすぐには返事ができなかった。
昨日一晩泊めてもらっただけでも十分すぎるほど助かっている。それなのに、食事だけでなく、これからの衣服や登録のことまで三人が考えてくれている。
「でも、そこまでしてもらっていいの?」
「何が?」
「昨日会ったばっかりなのに。私、何も返せるものないよ」
イェルシェリナは特に驚きもせず、手元の書類を揃えた。
「今すぐ何か返してもらうために置いているわけじゃないわ」
「でも」
「今のあなたを外へ出しても、家もお金もない。身元を説明するものもない。なら、まず生活できる状態にする。それだけよ」
特別なことをしているという言い方ではなかった。
ルシェルトも食事を終えながら肩をすくめる。
「昨日の時点で連れて帰ったんだから、朝になったら急に追い出す方がおかしいだろ」
「それに、こちらとしてもまだ確認したいことがある」
ゼルディヴァンが続ける。
「お前だけが一方的に世話になっていると考える必要はない。分からない相手だからこそ、近くにいた方が確認もしやすい」
「ゼルディヴァン、それ慰めてる?」
「事実を言ってる」
「……慰め方、下手」
アシェラが淡々と付け加え、ルシェルトが小さく吹き出した。
「本人より容赦ないな」
「……事実」
「二人して同じこと言うなよ」
ゼルディヴァンは特に気にした様子もなく飲み物へ口をつけている。そのやり取りを見ているうちに、リゼルヴェートの中に残っていた遠慮が少しだけ軽くなった。
三人のことを、まだほとんど知らない。三人もリゼルヴェートの事情を知らないし、今朝になって名前の疑問まで一つ増えた。それでも、分からないことがあるからといってすぐに追い出すのではなく、必要なものを先に整えようとしてくれている。
「じゃあ……事情が分かるまで、ここにいてもいい?」
「ええ」
イェルシェリナは迷わず頷いた。
「ただし、分からないことをそのままにするつもりはないわ。あなた自身のことも、これからどうするかも、順番に確認していきましょう」
「うん。ありがとう」
返事をすると、イェルシェリナはそれ以上恩を着せるようなことを言わず、次に必要なことへ意識を移した。ルシェルトも空いた食器を集め、ゼルディヴァンは再び紙へ視線を落としている。
その何でもない扱いが、今のリゼルヴェートにはありがたかった。
少なくとも、ここでは何も分からない自分を理由に、すぐ外へ放り出されることはない。その程度の安心でも、知らない世界で迎えた最初の朝には十分大きかった。
食事が終わる頃には、窓から差し込む朝の光もかなり明るくなっていた。イェルシェリナは立ち上がると、まだルシェルトの上着を借りたままのリゼルヴェートを上から下まで見た。
「まず服ね。その格好で王都を歩かせるわけにはいかないもの」
昨日まで何一つ分からなかったこの世界で、リゼルヴェートには初めて自分から向かえる場所と、今日するべきことができた。二日目の朝は、まずこの世界で普通に暮らすための準備から始まることになった。




