第一章 4 『三人しかいない派閥』
「――こっちだ」
ルシェルトが何でもないことのように示した先を見て、リゼルヴェートは思わず足を止めた。
少し前まで木々と低い茂みに塞がれていたはずの場所へ、人一人が通れるほどの細い道が伸びている。土を踏み固めた古い山道にも見えるが、転生してから周囲を何度も見渡していたリゼルヴェートには、最初からそこに道があったとはどうしても思えなかった。
「……ここ、さっき道なかったよね?」
「今はあるだろ?」
「あるけど、そういう意味じゃなくて」
ルシェルトは特に不思議そうな顔もせず、その道へ足を踏み入れた。イェルシェリナとゼルディヴァンも当然のように後へ続くため、リゼルヴェートは隣にいるアシェラへ視線を落とした。
「アシェラ、あれって普通なの?」
「……こっちでは」
「やっぱり普通なんだ……」
日本で森の中に突然道が現れれば、それだけでかなりの出来事になるはずだ。ところが目の前の三人にとっては、立ち止まって確認するほど珍しいことですらないらしい。
置いていかれないように歩き始めると、現れた道は見た目以上に進みやすかった。木の根や石が完全に消えているわけではないのに、足を取られそうな場所が妙に少なく、森の中をそのまま横切るより明らかに楽に進める。
「これ、ルシェルトがやったの?」
「やったっていうより、前に通った道を使ってるだけだな」
「前に通った道を使うと、道が出てくるの?」
「だいたいそんな感じでいい。一度通った場所なら覚えておけるから、そこまでの道を繋ぎ直せる」
詳しい仕組みまでは分からない。それでも、さっきまで見当たらなかった道が実際に使える形で現れ、三人が何の疑問もなくそこを歩いている。その現象を目の前で見れば、リゼルヴェートにとっては十分すぎるほど不思議だった。
「それって、魔法?」
「ん? まあ、そうだな」
返ってきたのは驚くほど軽い返事だった。
ルシェルトだけでなく、前を歩いている二人も特別な反応を見せない。ゼルディヴァンが一度だけ振り返ったものの、珍しい質問をされたという程度の様子だった。
「魔法を見るのは初めてか?」
「ちゃんと見るのは初めて」
「……本当にどこから来たんだ」
「それは私も説明できたらいいんだけど……」
ゼルディヴァンの疑問はもっともだった。リゼルヴェート自身、この世界について知っていることなどほとんどない。言葉が通じることと、自分に新しい名前があること、それから今目の前で見たような魔法が普通に存在するらしいことくらいだった。
ルシェルトが進路を変えるたび、細道もそれに沿うように森の中を続いていく。やがて木々が少しずつ薄くなり、最後の茂みを抜けたところで視界が一気に開けた。
森の外へ広がる平地の向こうに、長い外壁と、その内側から覗く大小の建物が並んでいる。
「あれが町?」
「王都だよ」
ルシェルトの返事を聞き、リゼルヴェートは遠くの建物を改めて眺めた。
「王都って、王様がいるところ?」
「他に何があるんだよ」
「本当に王様いるんだ……」
「そこに驚くのか?」
魔法に続いて王様まで本当に存在するらしい。まだ森を出ただけなのに、日本との違いが次々に見つかって、何に驚けばいいのか分からなくなってくる。
王都へ近づくにつれて人の姿も増えていった。荷車を押す人、道端で荷物を積み替える人、家の前を掃除する人。服装も建物も日本とはまるで違うのに、人々が暮らしている様子そのものは思っていたより普通に見えた。
ただ、その日常へ当たり前のように混じっているものは、リゼルヴェートにとってまったく普通ではなかった。
通り沿いの店先では、火を焚いているようには見えない金属板の上から湯気が立ち、少し離れた場所では男性が手を向けただけで荷物がふわりと持ち上がった。さらにその先では、女性が桶へ手をかざすと、何もない空中から細い水流が落ちていく。
リゼルヴェートが思わず足を緩めても、周囲の人々は誰一人として気に留めていなかった。
「……みんな使えるの?」
「何が?」
「魔法」
今度はイェルシェリナが振り返った。
「生活で使う程度なら珍しくないわ。全員が同じことをできるわけではないけれど、今見たくらいなら特別扱いするほどでもないわね」
「生活で普通に使うんだ……」
魔法と聞けば、もっと限られた人だけが扱う特別な力を想像していた。ところがこの世界では、火を起こしたり、水を出したり、荷物を動かしたりすることまで生活の一部らしい。
知らないものを一つ知るたび、その向こう側からさらに知らないものが増えていく。王都の外縁へ入った頃には、リゼルヴェートは建物や人々の服装、道具、あちこちで使われている魔法へ次々に目を奪われていた。
「リゼル、前見ろ」
「え?」
ルシェルトに声をかけられて顔を戻した時には、あと半歩で道端の木箱へ膝をぶつけるところだった。
「危なっ」
「見物するなとは言わないけど、歩きながら全部見るなよ。王都に着いて最初の怪我がよそ見とか、笑えないからな」
「気をつけます……」
「その返事、信用していいか?」
「たぶん」
「アシェラみたいなこと言い始めたな」
隣を歩くアシェラは、名前を出されても何も反応しなかった。
人通りの多い場所へ向かうのかと思っていたが、イェルシェリナたちは途中で大きな通りから外れ、王都の外側に近い静かな区画へ進んでいった。建物の数は少し減り、華やかな店や大きな施設よりも、長く使われていることが分かる小さな建物が目立ってくる。
「もうすぐ着くぞ」
「みんなのところ?」
「ああ。俺たちが普段使ってる場所だ」
ルシェルトの言葉を聞き、リゼルヴェートはその先へ視線を向けた。
三人がどんな立場なのか、まだ詳しく聞いていない。森で偶然出会い、帰る場所がない自分を連れてきてくれただけで、何をしている人たちなのかもほとんど分からない。
それでも王都で活動している三人なら、それなりに人が出入りする場所へ向かうのだろうと漠然と考えていた。
ところが、イェルシェリナが足を止めた場所を見て、その想像は簡単に外れた。
「着いたわ」
「……ここ?」
目の前にあったのは、二階建ての小さな古い建物だった。
壊れかけているわけではない。窓も扉もきちんと整えられ、入口周辺も掃除されている。ただ、周囲の建物と比べても特別大きくはなく、大勢の人間が活動している場所には見えなかった。
「何か問題ある?」
「ないけど……もっと大きいところを想像してた」
「期待させた覚えはないわよ」
イェルシェリナはそう返して扉を開けた。
中へ入ると、外観と同じく華やかさより実用性の方が強かった。机や椅子、棚といった必要なものは一通り揃っているものの、広さには余裕がない。壁際には書類が積まれ、使い込まれた棚や卓上には、三人が日常的にここを使っていることが分かる痕跡が残っていた。
ルシェルトから借りていた上着を返そうとすると、「着替えをどうにかするまで着てろ」と止められた。森より暖かい室内へ入ったとはいえ、簡素な白い服だけでは心許なかったため、リゼルヴェートも素直に従うことにした。
「そういえば、私たちのことをまだほとんど説明していなかったわね」
イェルシェリナが机の上の書類を脇へ寄せながら、リゼルヴェートへ視線を向けた。
「ここは《ノルシェリア派》の拠点よ」
「ノルシェリア派?」
初めて聞く名前だった。
「この国で活動している政治派閥の一つ。私が代表を務めていて、ゼルディヴァンとルシェルトも所属しているわ」
「政治の派閥なんだ」
「ええ。詳しい話は今ここで全部覚えなくていいわ。あなたはこの国のこと自体、ほとんど知らないんでしょう?」
「うん。王様がいるってさっき知ったくらい」
「……それなら、本当に少しずつでいいわね」
イェルシェリナが小さく息を吐く。
森で三人が一緒に行動していた理由も、それでようやく分かった。単に三人で出歩いていたのではなく、同じ《ノルシェリア派》という集まりに所属し、その活動のために行動していたらしい。
ただ、政治派閥と聞いてから改めて室内を見渡すと、今度は別の疑問が浮かんだ。拠点という割には静かで、三人以外の人間が出入りしている気配もない。
その疑問を抱えたまま、しばらくして用意された食事の席へ移った。温かい料理を前にすると、転生してから何も口にしていなかった身体が急に空腹を訴え始める。
「いただきます」
三人が一瞬だけこちらを見たため、リゼルヴェートは手を止めた。
「……言わないの?」
「何を?」
「いただきます」
「そういう挨拶があるところから来たのか?」
ルシェルトに聞かれ、リゼルヴェートは頷いた。
「うん。食べる前に言うの」
「別に悪くないんじゃないか」
それ以上追及されることもなく、リゼルヴェートは安心して食事へ手を伸ばした。
味も食感も日本で慣れ親しんだ料理とは違うが、温かい食事が身体へ入るだけで気持ちがかなり落ち着く。事故で死んだその日のうちに別世界で新しい身体になり、知らない三人と食卓を囲んでいる状況は改めて考えると相当に奇妙だったが、森で何も分からないまま立っていた時よりはずっと安心できた。
食事を進めながら室内を眺めているうちに、先ほどから引っかかっていた疑問が再び浮かんだ。
「ノルシェリア派って、他の人はどこにいるの?」
イェルシェリナが食事の手を止める。
「他の人?」
「うん。ここにいる人たち。今日は出かけてるの?」
今度はゼルディヴァンとルシェルトまで手を止めた。
三人の視線がわずかに交わったあと、ゼルディヴァンが淡々と答える。
「今、実際に動いている構成員なら、俺たちで全部だ」
リゼルヴェートは言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
イェルシェリナが代表で、ゼルディヴァンとルシェルトが所属している。そこまでは聞いた。しかし《政治派閥》というくらいなのだから、その三人を中心にもっと多くの人間がいるものだと思っていた。
「……三人だけ?」
イェルシェリナも、ゼルディヴァンも、ルシェルトも否定しなかった。
食卓を囲む三人と、静かな拠点を改めて見比べたことで、リゼルヴェートはようやく人の気配が少なかった理由を理解した。森で自分を拾い、帰る場所のない自分へ初めて居場所を差し出した《ノルシェリア派》は、本当に目の前の三人だけで動いていた。




