第一章 10 『常世星桜』
ルシェルトへ魔獣の牙が届くと理解した瞬間、リゼルヴェートの中へ、知らないはずの名前があまりにも自然に浮かび上がった。誰かから教わった記憶も、自分で考えた覚えもない。
それなのに《常世星桜》という四文字だけは、昨日この世界で《リゼルヴェート・アルシェノア》という名を最初から自分のものだと知っていた時と同じように、疑う余地なく自分の内側へ収まった。
同時に、胸の奥で何かがほどける感覚が広がった。熱でも痛みでもなく、今までそこにあることすら気づかなかったものが、助けたいという一つの意思へ応じて全身へ流れ出してくる。
魔獣はすでにルシェルトへ飛びかかり、開いた顎の向こうには黄ばんだ牙が並んでいたが、間に合わないという焦りより先に、リゼルヴェートには自分の手を伸ばせば止められることだけが分かっていた。
右手の先に白桃色の光が灯り、瞬く間に薄い花弁の形へ変わる。縁は桜金に輝き、先端には淡い藤色が混じり、風もないのに空中で柔らかく揺れた。
炎とも風とも、昨日まで王都で見てきた生活の魔法とも違う光だったが、その正体を考える必要はなく、どう使えばいいのかも最初から知っているように自然だった。
「——『星桜千華』」
言葉と同時に、花弁が視界から消えた。
次に見えた時には、ルシェルトへ飛びかかっていた魔獣の身体を白桃色の光が横切っていた。衝突音も悲鳴もなく、牙も爪もルシェルトへ届かないまま、魔獣の巨体は光の通過した場所から桜金の粒へ変わり始める。
黒褐色の毛も、硬い棘も、振り下ろされるはずだった前脚も、空中にいた勢いさえ残さず細かな輝きへほどけ、ほんの一瞬前までそこにいたはずの魔獣だけが完全に消えた。
残った風に服を揺らされたルシェルトが、その場で動きを止める。すぐ近くにいたイェルシェリナも言葉を失い、ゼルディヴァンの周囲へ展開していた観測鏡さえ、次の敵を追うより一瞬遅れて同じ場所を映していた。
何が起きたのか理解できていないのはリゼルヴェートも同じで、伸ばした手と何もなくなった空間を見比べたものの、助けられたという事実を確かめるより早く周囲から新たな唸り声が重なった。
退路を塞いでいた魔獣は一体ではない。後方から追ってきた群れも、北斜面から回り込んだ個体も残っており、仲間が突然消えた程度で動きを止める様子はなかった。
正面の岩陰から二頭が飛び出し、さらにその背後でも複数の影が動いたことで、リゼルヴェートは考えるより先にもう一度胸の奥の力へ意識を向けた。
すると、先ほど一枚だけだった光の花弁が、今度は肩の周囲や頭上、足元、背後へまで次々と現れた。
白桃色を基調に桜金と薄藤へ色を変える光が数え切れないほど浮かび、風に舞う花びらのように見えるのに、一枚一枚が明確に別の方向へ向きを変えている。
「リゼルヴェート、それ……」
イェルシェリナの声には、普段ならほとんど見せない戸惑いが混じっていた。
けれど魔獣は待たない。正面から走り込んできた二頭へリゼルヴェートが視線を向けただけで、複数の花弁がそれぞれ異なる軌道を描いて飛び出した。
一頭目の爪が振り下ろされるより先に胴を斜めに横切り、もう一頭が横へ跳んで避けようとすれば、別の花弁がその動きに合わせて滑らかに曲がる。
どちらも結果は同じだった。
光に触れた場所から魔獣の身体が崩れ、切断面も血も残さないまま桜金の粒へ変わっていく。
地面へ倒れる時間さえ与えられず二頭が続けて消えたことで、リゼルヴェートは偶然ではないことをようやく理解したが、それ以上に理解できなかったのは、自分がほとんど何もしていないという感覚の方だった。
腕は重くならず、呼吸も乱れず、胸の奥の力が減っているようにも感じない。どの花弁をどの敵へ向け、どの角度から当てるか細かく考えていないのに、光はリゼルヴェートが倒したい相手だけを正確に選んでいく。
「後ろ、六体! 岩壁沿いにも二体来てる!」
ゼルディヴァンの警告に振り返れば、さっきまでなら撤退経路を変えなければならなかった数の魔獣が、こちらへ向かって一斉に駆けていた。
三人を追い詰め、逃げ道まで塞いだ群れであるはずなのに、今のリゼルヴェートにはその数が脅威として頭へ入ってこなかった。
周囲に浮かんでいた花弁が一斉に動き出す。
それらは一塊になって群れへ押し寄せるのではなく、一枚ごとに別の魔獣を捉えた。真正面から飛ぶ光もあれば、地面すれすれを走って脚元から切り上げるものもあり、跳躍した個体には進行方向へ先回りする花弁が向かう。
岩陰へ逃げ込もうとした魔獣には別方向から光が回り込み、爪で払い落とそうとした一体は、花弁へ触れた前脚から肩、胴へと消失が広がり、吠える間もなく姿を失った。
速すぎて、ゼルディヴァンの鏡が敵の位置を告げ終える前に決着する場面すらあった。
リゼルヴェートはその異常さに自分で気づき始めていた。それでも、攻撃を止めようとは思わなかった。ついさっきまで三人を追い詰め、ルシェルトを噛み殺しかけた魔獣たちがまだ残っている以上、ここで手加減する理由はない。
北側から回り込んできた個体が斜面を駆け下り、後方の群れが左右へ散れて包囲しようとする。けれど花弁はそれぞれの動きへ合わせて分かれ、ひとつの攻撃を避けても別の光が死角から追いついた。
数の優位はほとんど意味を持たず、旧採石路を埋めていた魔獣たちは、現れた順番すら関係なく次々と光へ変わって消えていく。
最後に残った数体がようやくこちらへ背を向けた。
逃げようとしているのだとリゼルヴェートが理解した時には、すでに花弁が追っていた。白桃色の軌跡が岩場を越え、斜面へ散った魔獣へそれぞれ追いつき、遠くで桜金の光がほぼ同時に瞬く。
それを最後に、唸り声も足音も途絶えた。
ほんの少し前まで十体を超える魔獣に囲まれ、逃げ道さえ塞がれていたはずの旧採石路には、倒れた死骸すら一つ残っていない。
乾いた風が岩壁の間を抜け、戦闘前から残っていた足跡だけが地面へ重なっている光景は、今までの危機そのものが最初から存在しなかったようにさえ見えた。
リゼルヴェートが手を下ろすと、周囲を漂っていた花弁も役目を終えたように透け始め、最後には淡い光となって空気へ溶けた。
身体には痛みも疲労もなく、あれだけの魔獣を一度に消したという事実だけが、自分の感覚から大きく外れて残っている。
まずルシェルトを見ると、彼は怪我もなく立っていた。しかし助かった安堵より、魔獣が消えた周囲とリゼルヴェートを何度も見比べる方へ意識を奪われているようだった。
「ルシェルト、怪我してない?」
「ああ……俺は大丈夫だ。大丈夫なんだけど、ちょっと待ってくれ。今、何体いた?」
「途中から数えてない……」
「俺もだよ」
その返事を聞いて、ようやく助けられたことへの安心が胸へ広がった。
けれど安心したまま終われる状況ではなかった。
イェルシェリナは普段なら次の行動を真っ先に決めるはずなのに、今は周囲を見渡したまま言葉を失っている。ゼルディヴァンも観測鏡を消さず、魔獣がいた場所を一つずつ確かめていたが、そこに残っているものが何もない以上、分析する材料そのものが消えていた。
アシェラだけはいつもと変わらない表情でリゼルヴェートを見ていた。
その落ち着きが逆に気になったものの、今は自分の方がそれどころではない。
リゼルヴェートは右手を持ち上げ、何の変化もない指先を見つめた。助けたいと思って使った力であることは分かる。技の名前も、自分が《常世星桜》という何かを持っていることも、なぜか最初から知っていた。
けれど、その力がどの程度のものなのかまでは知らなかった。
少なくとも、今の結果を普通だと思えるほど異世界の常識に慣れてはいない。
「……え、強すぎない?」
思わず漏れた言葉に、三人の誰もすぐには返事をしなかった。
やがてゼルディヴァンが浮かべていた鏡をゆっくり下ろし、リゼルヴェートへまっすぐ視線を向ける。普段なら見た情報をすぐ整理して言葉へ変える彼ですら、今起きた現象については断定できる部分を選ぶように間を置いてから口を開いた。
「……今の、真律だ」
昨日初めて教えられたばかりの言葉が、自分自身へ向けられたことで意味を変えた。リゼルヴェートは何も残っていない採石路を見渡しながら、自分の中に最初から存在していたらしい力が、三人の知る《真律》という枠へ収まるものなのだと初めて知った。




